初めである。大島幸代氏は近年「迦毘羅神」について、『月蔵経』に「震旦」を護持するものと説かれ、西域にあって中国と西域との間を往還する僧侶を守護する神として信仰された様相を明らかにした(注22)。同氏によれば「迦毘羅神」像には図像的規定が無かったとみられ、そうした中で史君墓に見られるようなソグドの神像の西方的要素を借りて造像されたのが大住聖窟像であったという。「迦毘羅神」の西域における中国僧の守護という特性は、玄奘の西域行の象徴としてもふさわしい。大唐三蔵聖教序、序記碑の造像において大住聖窟像と同種の「迦毘羅神」図像が意識され、帯喰と肩喰が新たに表された可能性も考えうる。ただ腹部に獣面をあらわすことについて他の尊種に目を向けると、北斉~隋の青州龍興寺跡出土菩薩立像(青州博物館蔵)の胸飾下と帯飾の一区画には獣面があらわされ〔図23〕、西安博物院蔵の隋末~初唐と考えられる菩薩立像には腹部において瓔珞間を両角で繋ぐ獣面があらわされている〔図24〕。このように、仏像の腹部に獣面を表すことはすでに菩薩像で行われており、これを踏襲した可能性もある。この帯喰・肩喰の西域的性質に関わる問題は、肩喰の性質や、大唐三蔵聖教序、序記碑の中尊倚像など他像の性質を踏まえて議論しなければならない。別稿を期したい。⑷両角を有する獣面装飾の系譜また西安博物院蔵菩薩像や同州聖教序碑⑤像、奉先寺洞多聞天像および万仏洞二天王像の腹部にあらわされた有角の獣面は、奉先寺洞像についてすでに林巳奈夫氏が指摘するように(注23)、後漢以来の有角の獣鐶・鋪首装飾の一種と考えられる。鋪首は北魏・太和元年(477)の宋紹祖墓の石槨に夥しく施された例のように〔図25〕、元来は墓や墓門を守る装飾である。鋪首に類する両角を有する獣面装飾は、雲岡石窟第7, 12窟や龍門石窟古陽洞など4世紀末~5世紀初頭の仏教窟では龕楣装飾として用いられ、その他北朝末~初唐期においては石碑装飾や橋梁装飾としても用いられるなど、北朝後期から初唐にかけて用途が広がっていく。そうした中で注目すべきは南京・棲霞寺の上元2年(676)の明徴君碑側面〔図26〕に奉先寺洞多聞天像帯喰と酷似した複雑な鋪首様装飾が施されている事である。明徴君碑はその碑文によれば高宗の撰文になり、碑が造られたのは奉先寺洞完工の翌年である。このことは、同種の複雑な有角の鋪首様装飾も、帯喰そのものと同じく高宗付近でのみ用いられたことを示す。―489――489―
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