注⑴慧立, 彦悰『大慈恩寺三蔵法師伝』巻六(大正蔵50, 256a)なお『大慈恩寺三蔵法師伝』巻六・七には聖教序碑・序記碑建立の経緯や、のちの弘福寺僧・懐仁による集字聖教序碑(西安碑林博物館に現存)の建立経緯なども含めて詳しく記される。⑵慧立, 彦悰『大慈恩寺三蔵法師伝』巻七(大正蔵50, 260c)⑶同上⑷宋敏求(北宋)『長安志』巻八⑸吉村苣子「慈恩寺大雁塔の沿革と名称」『国華』1071, 1984陳景富『大慈恩寺志』三秦出版社, 3.おわりにこのように初唐期において高宗および武則天の周辺で成立したと考えられる帯喰装飾を有する天王像は、盛唐期になると神龍3年(707)あるいは景龍3年(709)の作と推定されている甘粛省秦安県葉堡唐墓出土の武人俑等(注24)、盛唐期になると特に墓中の武人俑に多く施されるようになっていく。ただし敦煌莫高窟第45窟や西安公路学院出土の天王像に帯喰があらわされないように、盛唐期の地上の仏教的天王像において帯喰をあらわす図像は多くなく、主流を占めるようになるのは中唐、晩唐期になってからと考えられる。2000, 10-31頁⑹両碑の配置の意味については荒金信治氏の研究がある。荒金信治「雁塔聖教序の位置関係における一考察」『別府大学国語国文学』No.33, 1991荒金信治「雁塔聖教序建立の経緯」『別府大学紀要』No. 34, 1993⑺岡田健「長安初期造像の展望」『佛教藝術』177, 毎日新聞出版, 1988⑻久野美樹『中国の仏教美術─後漢代から元代まで─』(世界美術双書6), 東信堂, 1999⑼西安碑林博物館の展示解説(2023年3月時点・中文版)より。⑽荒金大琳「雁塔聖教序から生まれた同州聖教序」『別府大学紀要』, 2010⑾大正蔵巻38, 257a⑿奉先寺洞の龕記の原文と解釈については久野美樹氏の論考を参考にした。久野美樹『唐代龍門石窟の研究─造形の思想的背景について─』中央公論美術出版, 2011, 44-49, 460-461頁⒀この南壁天王像の鳥形の肩喰については曽布川寛氏がすでに注目している。曽布川寛「竜門石窟における唐代造像の研究」『東方学報』60, 1988, 257頁⒁曽布川寛氏前掲注⒀論文⒂万仏洞の法量は以下に基づいている。劉景龍, 楊超傑『龍門石窟総録第3卷文字著録』中国大百科全書出版社, 1999, 70, 75頁⒃宮大中『龍門石窟藝術』上海人民出版社, 1981, 195-198頁⒄曽布川寛氏前掲注⒀論文299-300頁⒅近年常青氏も同様の展開を例示している。常青『長安与洛陽 : 五至九世紀両京仏教芸術研究』⒆キジル石窟の年代分類には諸説あるが、189窟と同一の窟内にある190窟門口の藁材が北京大学下, 文物出版社, 2020, 405頁―490――490―
元のページ ../index.html#500