鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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口孫市の設計による西洋建築の建設をすすめ、社会における欧米の生活様式や文化の普及・実践につとめた。なお、春翠をはじめ子息の寛一、友成が収集した美術コレクションは、現在、泉屋博古館に収められ、広く一般に展示公開が行われている。ここでは、住友家にまつわる近代美術の諸動向を精査することから、その影響と文化発展に対する意識を捉えていきたい。近代以降に住友家が財閥として富を為す礎を築いた人物に、広瀬宰平(1828-1914)と伊庭貞剛(1847-1926)の二人がいる。両者は叔父と甥の関係にあたるが、ともに近江国に生まれ、住友家総理人(初代・二代)として、別子銅山の存続と近代以降の発展に大きな役割を果たした。住友家では、3代目住友友信(1647-1706)より代々当主が「吉左衞門」の名を襲名するようになるが、広瀬が総理人を務めた明治10年(1877)から明治27年(1894)までの間に、12代吉左衞門友親(1843-90)の跡を継いだ13代吉左衞門友忠(1872-90)が早逝する事態に見舞われた。14代を友親の未亡人・登久が一時的に継ぐが、住友家としては早急に次の家長を迎える必要があった。そこで明治25年(1892)に、京都の公家である徳大寺公純の六男・隆麿が登久の養嗣子として迎えられ、登久の娘・満寿と結婚し、翌年に第15代住友吉左衞門(諱・友純)を襲名することとなった。友純は雅号を春翠と称したが、幼年期より父の影響により国学や詠歌、能楽、茶の湯などに親しむとともに、四書五経をはじめとする漢籍や、日本書紀などの国書を学ぶなど、公家としての教養を充分に身につけた人物であった。徳大寺家は藤原北家閑院流・清華家の家格を持つ名門公家で、友純の父は東山天皇五世孫である従一位右大臣・徳大寺公純、長兄に後に内大臣となる徳大寺実則、次兄に首相をつとめ、後に元老として国家に重きをなした西園寺公望らがいた。友純は第15代住友吉左衞門として、住友の事業拡大と近代化を導いたが、一方で、美術品収集を中核として、多彩な文化活動を行うことでも大きな存在感を示した。その背景には父・公純と兄・公望の国家や文化を思う気持ちと、公益性を第一に考える姿勢が影響していたことが考えられるが、この思想は住友の事業精神である「自利利他公私一如」とも相通じるものでもあった。春翠は黒田清輝、鹿子木孟郎、関西美術院などの支援をし、西洋絵画を含む同時代作家の洋画を収集したが、その最初のきっかけは兄・公望からの黒田の紹介であった。春翠は明治27(1894)年5月に公望の周旋を受けて、黒田の画業に関与し、洋画一般に関心を示すようになる。公望はパリ留学中に黒田と交流を持ち、画家転向に反対する黒田の父・清綱を説得するなど、面倒をみる間柄であった。また春翠は山本芳―496――496―

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