翠にも作品制作の資金を援助している。公望が春翠にあてた書簡(明治27年6月1日付)には「是亦吾邦美術保護之一端にて爲國千萬鳴謝仕候」「黒田氏額面は目下圖式考へ申候。小官へ全く御委任被下度候。十分に意匠を盡し後世に可殘の品を爲作可申候」との記載がある(注2)。黒田は前年秋に京都・清閑寺を訪れた際に《昔語り》の着想を得たといわれるが、同作は公望と黒田の深い関係性の中から、住友家の援助により制作が行われたものである。春翠は公望の影響を受けながら、国家や国益を見据えた美術振興と支援の重要性を意識するようになるが、明治30年(1897)4月には、欧米各国の文化や商工業の発達ほかの巡察のため、神戸港からアメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、ドイツ、オーストリア、イタリアへの外遊を行った。春翠はこの際、欧米の鉱工業の現状を目の当たりにするとともに、各国で度々美術館・博物館に訪れるなど、文化面にも強い関心を寄せている。シカゴ美術館を訪れた際には、美術館の建物保存に私財を投じたマーシャル・フィールドの姿勢に感銘を受けたほか、パリでは公望と懇意であった美術商・林忠正の仲介により《サン=シメオン農場の道》(1864年)、《モンソー公園》(1876年)という2点のクロード・モネ作品を購入している。同作は、日本に招来された最初期のモネ作品であり、後に須磨別邸に飾られ、現在は泉屋博古館所蔵の住友洋画コレクションの代表的存在となっている。帰国後の春翠は、貴族院議員に選任されて帝国議会に臨むとともに、明治31年(1898)4月には明治美術会の名誉会員に就任をしている。この頃の明治美術会は、明治29年(1896)に黒田清輝、久米桂一郎、小代為重、合田清らが白馬会を結成し、同会を退会していた時期であり、浅井忠、松岡寿、原田直次郎らが中心的存在であった。春翠は明治34年(1901)より、フランス留学中の鹿子木孟郎(1874-1941)の画業を援助し、現地での洋画収集を依頼しているが、鹿子木と住友家がつながる背景には、兄・益次郎を通じて画業の初期(不同舎入学時)から知遇を得ていた思想家・杉浦重剛(1855-1924)と当時住友本店理事であった河上謹一(1856-1945)の存在が大きく影響をしていた。近江国膳所藩出身の杉浦と、周防国岩国藩出身の河上は、ともに貢進生として大学南校に学んだ盟友であり、「日本主義」を主張する乾坤社の設立をともにするなど、深い絆で結ばれていた同志であった。河上は明治32年(1899)に、杉浦と同じ近江国の出身である伊庭貞剛からの推挙を受け、日銀理事を辞して住友本店理事に就任をする。一方で、鹿子木の兄・益次郎は、杉浦が明治16年(1883)に東京・小石川の自邸に開いた私塾「称好塾」に学んでおり、鹿子木は明治23年(1890)春に杉浦のもとを―497――497―
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