鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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訪れている。鹿子木はその際、杉浦から「畫を學ぶものは想を高くせざるべからず。畫の妙は着想にありと。」(注3)との言葉を受け、二年後に再び杉浦のもとを訪れた際に、小山正太郎を紹介され、不同舎に学ぶこととなった。また、鹿子木は「余が逆境に處して勇気を倍し、順境に處しても亦事大主義を卑観して辞せざるの意気を得たるは、實に杉浦先生と小山師の賜なり。」(注4)として、杉浦と小山から受けた思想や生き方に対する影響を回想しているが、武士の家に生まれ、幼時より貧しい生活のなか、剛直な気骨を持ちながら逆境を越えてきた鹿子木の画家や教育者としての資質は、両者の存在によって育まれたものといえる。杉浦、小山、河上、伊庭といった明治期におけるわが国の思想・芸術・政治経済の分野での人的・地縁的なネットワークを背景として、鹿子木はパリ滞在中の明治34年(1901)に、旧知の河上謹一から住友家の西洋絵画収集を託された。鹿子木は明治37年(1904)まで欧州に滞在し、師であるローランスの傑作《ルターとその弟子たち》(1903年)やアンリ・マルタン《斜陽》ほか、自らによる名画の模写も含めて、住友家のために西洋絵画の収集に努めた。帰国後は京都に居を定め、自ら画塾を開くとともに、不同舎時代から面識を持ち、フランスでも活動をともにした浅井忠の推挙を受けて、京都工芸高等学校の講師となる。また浅井の開設した聖護院洋画研究所でも指導にあたるなど、京都や関西地方における洋画家の育成に大きな役割を果たす。1905(明治38)年に研究所が新築され、関西美術院として開院する際には、春翠は鹿子木からの申し入れを受けて、1千円の寄付を行っている。鹿子木は関西美術院の開院を待たずに、明治39年(1906)に春翠からの命を受けて再びフランスに留学し、自らの画技を磨くとともに、ローランス《マルソー将軍の遺体の前のオーストリアの参謀たち》(1877年)、同《年代記》(1906年)、ギョーム・セニャック《ミューズ》などの歴史画を住友家のために取得した。春翠による西洋絵画および日本近代洋画のコレクションは、住友本店臨時建築部技師長の野口孫市設計による須磨別邸(戦災により焼失)において、中国・日本の陶磁器や、中国青銅器などの自身の他の蒐集品とともに、洋館の随所に飾られた。同邸には太平洋画会のメンバーらの画家たちも訪問しており、明治末年から大正期にかけて、日本で西洋絵画を直接眼にすることができる貴重な場所でもあった。春翠はその後も、鹿子木の取次により、浅井忠《グレーの森》(1901年)、和田英作《こだま》(1903年)、藤島武二《幸ある朝》(1908年)を収集したほか、自らの眼でも山下新太郎《読書の後》(1908年)、エルネスト=ジョセフ・ローラン《芍薬》、ソロモン=ジョセフ・ソロモン《野の聖母》などを購入している。―498――498―

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