(二)鉱工業都市・新居浜における近現代美術の諸相春翠の洋画コレクションをはじめ、近代美術と向き合う姿を確認した際に、黒田清輝、藤島武二、和田英作、岡田三郎助らの白馬会系・東京美術学校西洋画科教師陣による外光派アカデミズムの流れをくむ作品とともに、鹿子木孟郎をキーパーソンとして、浅井忠をはじめ不同舎から明治美術会・関西美術院の流れをくむ西洋の伝統的なリアリズムに基づく絵画技法や歴史的画題を重視した作家・作品の双方を支援したことは特筆すべき点といえる。ひいては西洋絵画の分野においても、モネ、コラン、ローランス、マルタンなど、印象派、外光派アカデミズム、伝統的歴史画といった同時代の幅広い系譜による作品を収集対象としていることから、私的な趣味・嗜好を越えた公益性や自国の美術・文化振興への使命感を強く抱いていたことが想起される。その背景には、幼時より生家の徳大寺家や兄・公望からの影響も受けながら育んだ「国家への使命感」や、端直、謹厳、中庸といった自身の資質とともに、家長として住友家が国家とともに伸長すること、すなわち「自利利他、公私一如」の精神を体現する思いが存在しており、春翠の近代洋画コレクションはそうした高い志によって形成されたものといえる。春翠の芸術文化に対する慈愛や支援の精神は、子息の寛一や友成(第16代住友吉左衞門)にも受け継がれ、寛一による岸田劉生への傾倒と交歓、友成の西洋および日本近代洋画コレクションの形成へと繋がりをみせた。明治から大正期にかけて、日本が近代化し西洋の思想や文化を積極的に受容していく中で、春翠は住友家と国家の発展を両輪として、わが国の文化振興に大きな影響と足跡を残したといえる。本項では、第二の視点として、春翠ならびに広瀬宰平、伊庭貞剛ら住友本店の経営者たちの国家の発展や公益性への想いと相関を持ちながら成長してきた鉱工業都市・新居浜における近現代美術の諸動向について、地域美術の視点から確認をする。新居浜における美術史を遡るときに、京都の明治画学館において田村宗立に洋画を学び、旧制西条中学校で美術教師として後進を指導した高瀬半哉(1868-1937)と、高瀬に学んだ新居浜における洋画の先駆者である岡本忠道(1888-1983)、さらに戦前期から小磯良平、小松益喜といった神戸在住の作家との交流を深めていた洋画家・飯尾時春(1909-95)、また小磯に師事し、戦後の新居浜において「オリゾン洋画研究所」を主宰した西澤富義(1915-74)などが、地域の枠組みを超えて、都市部との物的・人的な美術交流を積極的に行い、地方都市における美術や文化の発展に寄与した。一方で、住友の企業活動にゆかりを持つ美術家として、父が鉱山技師として四阪島―499――499―
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