鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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精錬所長をつとめ、幼・青年期を新居浜で過ごした中村研一(1895-1967)・琢二(1897-1988)兄弟や、初代住友総理人・広瀬宰平を縁戚にもつ北脇昇(1901-51)、父が住友金属鉱山に勤務していた新居浜出身のイラストレーター・真鍋博(1932-2000)などの存在も特筆される。さらに美術家ではないものの、愛媛県越智郡富田村(現・今治市)出身で内村鑑三に師事した無教会主義キリスト教の指導者である経済学者・矢内原忠雄(1893-1961)は、東京帝国大学卒業後に住友総本店に入社し、大正6年(1917)からの3年間を新居浜の別子鉱業所で過ごしている。なお当時新居浜には、同じく内村門下の先輩で住友に勤務していた黒崎幸吉(住友寛一の付人を勤めた経歴をもつ)も赴任しており、矢内原とともに新居浜での聖書集会・伝道活動をともにしている(注5)。また忠雄の子息であり、ジャコメッティとの親密な交友で知られる矢内原伊作(1918-89)は、新居浜でその生を受けている。新居浜における地域の美術動向を省察した際に、住友企業各社の経済・産業基盤を背景として、人的・物的な外部との積極的な交流が常に影響を及ぼしていることは大きな特徴といえる。例えば、先述した西澤富義は、福井県出身であるものの、父が役人として愛媛県庁に出向したことを機に青年期に新居浜に移り住み、住友化学に勤務するとともに、オリゾン洋画研究所を主宰し、在野の立場から地域の洋画教育・普及に尽力した。また中村研一・琢二兄弟においても、父が住友の技師を務めていたことから、新居浜との地縁が生まれた作家といえる。そのような中で、鉱工業都市としての地理的要因を背景に、技術者養成のため昭和14年(1939)に設立された新居浜高等工業学校(現在の愛媛大学工学部の前身)の機械科第1期生として、青年時代を新居浜で過ごした人物に、実験工房の中心的存在として活躍した美術家の北代省三(1921-2001)とエンジニア・山崎英夫(1920-79)の二人がいる。北代と山崎はともに奇妙な縁で結ばれ、新居浜での出会いや戦地での再会を経て、「実験工房」においてモビール・オブジェや舞台美術装置を共作する一方、模型飛行機や凧の制作・飛行実験にも没頭し、終生「ものづくり」を通じて交流を深めた。両者の創作活動の背景には、新居浜高等工業学校での各種工学理論あるいは技術の習得が存在しており、「自然科学への眼差しとクラフトマンシップ」の精神は新居浜の地において培われたものといえる。北代は東京出身であり、どのような経緯から新居浜高等工業学校への進学を選択したのかという点については明らかではないが、北代の家系を辿ると、四国や新居浜との繋がりを見出すことができる。北代は昭和14年(1939)3月に麻布中学校を卒業後、税関長を務めた父・眞幸から技術者となることを勧められ、新潟や富山の高等工―500――500―

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