注⑴『住友春翠』芳泉會、昭和50年、196頁⑵前掲書269頁⑶鹿子木孟郎「小山正太郎師の名畫(鹿子木孟郎曰く)」『杉浦重剛先生』政教社、大正13年、業学校を受験している。そして同年6月に、7月から新設される新居浜高等工業学校機械科の入学試験を東京の会場で受験した。北代の父母はともに高知県に縁をもつ家系であり、父・眞幸は土佐藩士であった北代揆一の三男として高知に生まれ、東京高等商業学校を卒業後、上海、北京、大連などで海関につとめた。また母の満は、土佐藩士で後に男爵となった岩村高俊(1845-1906)の家に生まれ、兄に美術評論家・岩村透(1870-1917)や、建築家・竹腰健造(1888-1981)をもつ名家の出身であった。竹腰は東京帝国大学工学部建築科を卒業後、兄・透の勧めからイギリスに留学し、建築事務所に勤める傍らエッチングにも才能を発揮した人物であるが、帰国後は兄の紹介から住友総本店に入社し、住友ビルディング(現在の三井住友銀行大阪本店ビル)をはじめ、先輩の長谷部鋭吉とともに数多くの住友関係の建築を手がけた。現在、新居浜市美術館に収蔵されている新居浜高等工業学校在学中に北代が家族と交わした書簡の中には、帰省の道中に神戸の竹腰宅への訪問を促すもの(父から北代宛・昭和14年8月23日付消印)や、竹腰が新居浜の北代のもとを訪ねたこと(母宛・昭和14年12月14日付消印)といった内容を確認することができる。北代の動向をたどる際に、これまで家系の出自や、竹腰の存在が注目されることはなかったが、父母を通じた北代家と竹腰の関係性や、竹腰と住友のつながり、さらに両親のルーツを考えた際に、北代が新居浜に地縁を持つこととなった背景を想像することができるかも知れない。新居浜高等工業学校の設立も含めて、こうした状況は、新居浜の鉱工業都市としての性質と、住友との地縁的・歴史的な繋がりを背景としたものであり、他の美術家たちの動向とともに、日本の近現代美術史の枠組みの中で、もういちど新たな視点から仔細に検討をすすめる必要がある事項といえる。今回の研究報告で明らかとなった事項を踏まえ、地域の視点を重視しながら、引き続き個別事例についての調査研究を進めていきたい。668頁⑷前掲書、668頁⑸矢内原伊作『矢内原忠雄伝』みすず書房、平成10年、337頁―501――501―
元のページ ../index.html#511