② 朝鮮時代における肥前陶磁様式の受容について─漢陽都城内遺跡出土品を視座として─研 究 者:東京文化財研究所 研究員 田 代 裕一朗はじめに朝鮮時代における肥前陶磁の最大消費地として漢陽都城を挙げることができる。漢陽都城は、朝鮮時代(1392-1897)に都が置かれた漢城(現在のソウル)の都城である(注1)。漢陽都城内の消費地遺跡をめぐっては、1985年の昌慶宮発掘を嚆矢として、宮闕を中心に発掘が進められてきた。しかし2003年の清溪川再開発工事を切掛けとして、宮闕以外の消費地遺跡に対する調査も活発化し、近年は年間数十冊の発掘報告書が刊行されている。2010年頃より、この漢陽都城内の消費地遺跡から出土する陶磁器に対する研究も活発化した(注2)。その嚆矢として金へインによる論考があり、朝鮮時代前期に齎された中国陶磁、そして朝鮮時代末期から近代に齎された日本陶磁について論じている(金へイン 2010)。このうち前者の中国陶磁をめぐっては朴正敏が、青花(注3)、龍泉窯系青磁、元代陶磁の出土状況について研究をおこなった(朴正敏 2013・18)。さらに李鍾玟は、中国青花の出土背景について、窯跡、墳墓、寺跡出土品と併せて考察をおこない、漢陽都城内から出土する中国青花のほとんどが16世紀後半以前の製品であること、そしてこれらが福建商人による私貿易で齎された可能性を指摘した(李鍾玟 2012)。金恩慶もまた、中国青花が16世紀の対明私貿易の増加を背景として齎されたことを指摘しつつ、漢陽都城内で出土した中国青花に官窯製品が無く、粗質の民窯製品が多数を占めていることを指摘した(金恩慶 2019)。このように中国陶磁の出土例に関する研究が進むなか、日本陶磁をめぐっては、近代陶磁が論じられるいっぽうで、江戸時代の製品については全く論じられなかった(注4)。しかし朝鮮半島に渡った江戸時代の肥前陶磁をめぐって、日本では近年家田淳一が論考を発表している(家田 2006・2010)。家田は、『宗家文書』に寛文元年(1661)以後、「伊万里焼」が朝鮮への進上品として登場することを指摘した泉澄一の『釜山窯の史的研究』(1986年)を紹介しつつ、明治時代以後の文献史料を分析しながら朝鮮半島への輸出が安永年間(1772-81年)以降盛んになったことを指摘した。さらに慶尚南道地域(釜山広域市、梁山市、機張郡)を中心に伝世・出土する18世紀以降の製品を指摘した。肥前陶磁の伝世・出土例が慶尚南道地域に複数あるならば、漢陽都城内から続々と―511――511―
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