鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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〔図6〕は高台内側に銘を伴っており、また鍾路小規模遺跡(鳳翼洞)出土の染付碗片〔図14〕は上述した舎利具の碗と同一文様・器形の陶片である。今後更なる検討が必要であるが、このように筒江窯製品が複数確認できることから、筒江窯が朝鮮輸出に何らかの役割を果たしていた可能性を推定できよう。出土地域としては、いずれも遺構の性格が不明であるものの、清進2-3・8・12-16地区遺跡、敦義門博物館村遺跡、宗親府跡遺跡は、それぞれ市塵行廊(公設の常設市場)、慶煕宮、宗親府(宗室に関する業務を担当した官庁)の圏域に含まれる遺跡である(注8)。また清進12-16地区遺跡、新門路2街1-39番地遺跡、松峴洞遺跡、長橋4地区遺跡は、それぞれ寿進宮(別宮)、慶煕宮、景福宮、恵民署(医療、薬剤調合を担当した官庁)と隣接している。また都染洞遺跡は、義盈庫(油、蜜、蝋などの調達を担当した官庁)、司訳院(外国語教育、通翻訳を担当した官庁)と隣接している。しかし出土地は都城内全体に散在しており、特徴を見出すことは難しい(注9)。2.肥前陶磁の出土様相(中国陶磁との比較から)それではこのような肥前陶磁をめぐって、出土様相にどのような特質を見出すことができるだろうか。抽出の母体でもあり、また肥前陶磁と共に多数出土する中国陶磁との比較を通してその特質を論じたい。中国陶磁をめぐっては、既に先行研究で指摘されている通り、青花が圧倒的多数を占め、これに続いて龍泉窯製品、磁州窯製品がごく少量確認されるのみである。色絵はこれよりも更に少なく、筆者が確認した限り、清進2-3地区遺跡から3点(いずれも15世紀後半-16世紀前半)、清進12-16地区遺跡から2点(15世紀後半-16世紀前半、17世紀)報告されているのみである。出土地域については、肥前陶磁よりも広範囲に確認できる点以外に特徴を見出しがたい。いっぽう生産年代については、肥前陶磁同様、出土品の下限年代をもとに分類したところ、15世紀後半-16世紀前半:214点、16世紀中後半:48点、17世紀:50点、18世紀:7点、19世紀:6点であった(注10)。先述の通り、16世紀後半以前の中国青花がほとんどであることは、李鍾玟が既に指摘しているが、とりわけ15世紀後半-16世紀前半(明中後期)のものが大多数を占めていた。また18-19世紀の製品は極めて少なく、全体の傾向として減少傾向を辿るといえよう。あくまで生産年代に基づく考察であるものの、肥前陶磁と比較するならば、この減少傾向のなかで肥前陶磁が増加し、19世紀に至っては中国陶磁を数量において凌駕するといえる。―513――513―

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