鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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出土点数がまだ少ないため、「18世紀頃を境に中国陶磁を代替するように日本陶磁(肥前陶磁)が流通・消費された」というモデルは仮説の域を出ない。しかしこの頃を境に朝鮮社会に肥前陶磁が相当数浸透したことは、王室副葬品の様相にも伺える。肥前陶磁を使用した王室副葬品は、現在まで3件確認されている。これは英祖(1694-1776、在位:1724-1776)の七女である和協翁主(1733-1752)、正祖(1752-1800、在位:1776-1800)の兄である懿昭世孫(1750-1752)、正祖の側室である元嬪洪氏(1766-1779)の副葬品であり、いずれも18世紀後半に集中しており、上述した出土様相と軌を一にしているといえる(注11)。3.肥前陶磁様式の受容さて「どのような」肥前陶磁が「いつ頃」流通・消費されたのか明らかになったところで、これら肥前陶磁の様式がどのように朝鮮時代陶磁(白磁)に反映されたのか、様式受容の問題について考察をおこないたい。日本陶磁との関係について論じた先行研究として崔敬和の論考があり、19世紀以降の朝鮮時代陶磁に日本陶磁(肥前陶磁ふくむ)の要素が登場することが指摘されている(崔 2009)。ここで指摘された要素のうち、栗文様〔図29〕は、複数例確認でき、中区草洞72-10番地一円遺跡出土の染付皿片〔図21〕、松峴洞遺跡出土の染付皿片〔図4〕、清進1地区遺跡出土の染付皿片〔図2〕などを挙げることができる。つまり栗文様の肥前陶磁は多数流通・消費され、これらを通して朝鮮時代陶磁(白磁)に文様が反映されたものと考えられる。また円圏を中央に配し、その圏線を土坡に見立てて草花文様を放射状に配する構図は、長橋4地区遺跡出土の染付皿片〔図18〕などに確認できる。しかし栗文様と並んで崔敬和が指摘した若松文様(雲割)〔図30〕や氷裂文様は、現在までに出土した肥前陶磁の例には確認できない。限られた数量ながら28点中1点も確認できないことを踏まえるならば、朝鮮時代にあまり流通・消費されなかったタイプではないかと思われる。以上のように、栗文様と構図(円圏を中央に配し、その圏線を土坡に見立て、草花文様を配する構図)については、出土品を傍証として、朝鮮時代に多数流通・消費されていたタイプの肥前陶磁から朝鮮時代陶磁(白磁)に反映されたことを推測できる。それ以外については別の図式での影響関係を想定する必要があると筆者は考える。また崔敬和は指摘していないものの、筆者は漢陽都城内遺跡出土品を踏まえて、器内底の円圏「福」文について肥前陶磁との影響関係を推定したい。具体的には清進1―514――514―

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