注⑴漢陽都城は、1394(太祖3)年に開京(現在の開城)から遷都がおこなわれたのち、1396(太※「漢陽都城内遺跡から出土した江戸時代の肥前磁器」,『大橋康二先生喜寿記念論文集』, 雄山閣, 2023年において本調査研究の成果の一部を報告した。祖5)年に築造が開始された。⑵漢陽都城内の消費地遺跡から出土する陶磁器全体において外国製品は極めて少なく、無文の朝鮮白磁が大多数を占めている。最も大規模な遺跡である清進12-16地区遺跡(2013年報告)において、出土した陶磁器の80%が朝鮮白磁で、これに対して外国陶磁は3%である。また朝鮮白磁のなかでも無文が86%で青花は12%となっている。また筆者が確認した限りで外国陶磁は、中国と日本の製品のみであり、東南アジアや西アジアの製品は出土例が無い。⑶本稿において、中国陶磁および韓国・朝鮮陶磁を論ずる際には「青花」、日本陶磁(肥前陶磁)を論ずる際には「染付」の呼称を使用する。⑷近代陶磁をめぐっては、東大門運動場遺跡(2011年報告)以後、日本産業陶磁に関する論考が多数発表されている。⑸本研究において考察の対象としたのは、2021年5月までに報告された発掘調査である。⑹年代は、下限年代にもとづいて分類しており、例えば生産年代が「18世紀末-19世紀初」である場合は、「19世紀」として統計している。⑺針状の道具で釉面にハングルを点刻した銘は、16世紀以後の製品に確認できる。いずれも使用場所を記したもので、18世紀には干支+使用場所+数量という構成で刻まれるようになる。なお家田は、宮闕である昌徳宮仁政殿外行閣址遺跡からハングル点刻銘をともなった肥前陶磁の皿片(18世紀末-19世紀前半)が出土していることを紹介している(家田 2010)。この皿片をめぐって筆者は、(「八」と推定)という文字のみ判読できた。⑻漢陽都城内遺跡は、攪乱が激しく、また現存する地図や文献史料から居住層など遺構の性格を特定することが困難な例が多い。⑼点数が少ないため、現時点では地域的特徴と言い難いものの、18世紀に宮闕としての位相を高めた慶煕宮の周辺から2点出土している。慶煕宮は、粛宗(1661-1720、在位:1674-1720)が頻繁に臨御し、また英祖(1694-1776、在位:1724-76)が思悼世子(1735-62)の死後、亡くなるまで過ごしたことで知られている。⑽中国陶磁についても2021年5月までに報告された発掘調査をもとに数量分析をおこなった。なお各出土品については、「朝鮮時代の漢城における肥前陶磁の流通と消費:中国陶磁との比較を通して」(東洋陶磁学会研究会、2022年2月5日)で紹介をおこなった。⑾王室副葬品に加えて、日本陶磁(肥前陶磁)に対する評価を綴った史料もまた18世紀前後から確認されるようになる。代表的な史料として李喜経(1745-1805)の『雪岫外史』、金指南(1654-?)の『東槎一録』などがある。⑿青花の円圏「祭」文以前にも「祭」の文字文自体は、朝鮮白磁に確認でき、釉面陰刻「祭」文、鉄砂「祭」文(いずれも円圏を伴わない)を挙げることができる。それぞれ現在最も古い出土例として、前者は武甲里10号窯跡(運用年代:1580年代、西京文化財研究院、2015年発掘報告)、後者は鶴東里窯跡(運用年代:1610-17、京畿陶磁博物館、2019年発掘報告)を挙げることができる。青花の円圏「祭」文は、これらをベースとして生まれたものと筆者は考える。―516――516―
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