を手本にしていると考えられよう。岩塊で複雑に構成された《鏡湖帰棹図》〔図3〕の山に比べて、正信のそれはより整理されているのが看取できる。山の下に滝を配置しているのも両図が共通している。一方、元信の《真山水図》の方は、基本的な形は正信のそれと一致しているが、より簡潔化され、丸みのある山容となる。伝閻次于《鏡湖帰棹図》はすでに先行研究でその図様構成自体を継承する室町水墨画が紹介されており、岳翁筆《洞庭秋月・平沙落雁図》(フリーア美術館)、祥啓筆・桃源瑞仙賛《山水図》(メトロポリタン美術館)、伝元信《春夏耕作・秋冬山水図屛風》左隻(九州国立博物館)などはいずれも《鏡湖帰棹図》をモデルにしていると指摘されている(注2)。そのほか、惟高妙安賛元信印《冷香斎図》(個人蔵)〔図4〕、伝狩野季政の《月夜山水図》(九州国立博物館)なども部分的に、つまり岩山の部分を継承しているのであろう。いずれにしても、これらの作品における対象の山は継承されているうちに、徐々に斜めに傾けて、険しさを増して描かれる傾向がある。基本的に自然主義に基づいて描かれる馬遠、夏珪などの南宋院体画には例えば伝元信《春夏耕作・秋冬山水図屛風》(左隻)〔図5〕や、伝狩野季政の《月夜山水図》〔図6〕にあるような奇抜な山はほとんど見られない。つまり、日本の山水画が中国の山水画の図様を継承していくうちに、山の険しさや自然の雄大さを表現するために、徐々にモティーフを変形させている傾向が見られる。その傾向について、浙派の影響によるかどうかは明確に指摘できないが、浙派の絵画にも見て取れる。正信の《山水図》における松樹の表現について関連作品に先行例があると指摘された(注3)明時代中期の浙派画家王諤は約15世紀後半~16世紀前半(1488~1566)にわたって活躍した宮廷画家である。浙江省奉化の人、字は廷直、号は東原、正徳年間(1506~21)後半に宮廷画家の最高位に至り、その後郷里に帰ったという。遣明使との交流があることで、日本人との接触があった宮廷画家として知られている(注4)。その作風は例えば台北故宮博物院蔵の《画渓橋訪友》から見えるように、南宋の院体画風を基本としつつも、樹木の幹や岩などに濃い墨を多用し、余白と対照をするかのように一種の緊張感が画面から出ている〔図7〕。建物と後山との間に流れる雲は遠近感を表すために配置されたようであるが、松の木と山との大きさの関係からなのか、全体的に空間性がやや曖昧である。その画風は前文に触れた正信の《山水図》と関連性があるとされる《山水人物図》についても同じく言える。また、具体的なモティーフ、例えば前景にある巨大な岩とそこから斜めに生え出る樹木、橋を渡る人物と建物の組み合わせは馬遠、夏珪など南宋の院体画からの継承であろう―523――523―
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