II.ギリシア独立戦争に関連するイメージの分類大型の油彩画に表した最初のフランス人画家となった。他方、ドラクロワ以外の画家たちが同戦争を積極的に取り上げるようになるのは1827-28年のサロンからのことで、これは1825年2月の「パリの親ギリシア主義委員会(le Comité philhellène de Paris)」創設の影響が大きい(注7)。この委員会の主導により、1826年5月にルブラン画廊でギリシア人のための募金運動としての展覧会が開催されたが、ドラクロワはそこにも、《ミソロンギの廃墟のギリシア》〔図2〕をはじめ、4点の油彩画を出品した(注8)。ドラクロワのギリシア独立戦争に対する関心の高さは、他の親ギリシア主義者(philhellène)と同様の理由で説明できるに違いない。しかしドラクロワ固有の内在的動機に注目するなら、別の要素も指摘できるだろう。つまり、同戦争は画家にとって重要なオリエンタリズムの主題でもあったのである。彼はオスマン・トルコ兵やギリシア人たちの衣装および武器を描くにあたり、先行するオリエンタリズム絵画の作例を模写し、文献資料を調査し、収集家の友人宅を訪ねて実物をスケッチするなど、入念な準備を怠らなかった(注9)。前提として、同戦争を題材にしたドラクロワ作品を概観しておきたい。大型の油彩画作品は、オスマン・トルコ軍によるギリシア系住民の虐殺事件を取り上げた《キオス島の虐殺》と、ギリシア軍の重要な拠点であるミソロンギの陥落を寓意的に表した《ミソロンギの廃墟のギリシア》の2点がある。これらに続く中型の油彩画として、《山岳で殺されるトルコ士官》(1826年、個人蔵)、《ギリシア人とトルコ人の現在の戦争の場面》(1826-27年、ヴィンタートゥール、オスカー・ラインハルト美術館)、《ギリシア人とトルコ人の戦争の場面》(1856年、アテネ、国立絵画館アレクサンドロス・スートーゾ美術館)が挙げられよう。また、作品ごとの準備素描に加えて、主題決定前の自由な発想に基づく素描も多数残されている。それらの素描群において際立つのが、激しい戦闘の描写や衣装・武具の研究である。さらに、ギリシア独立戦争の出来事から直接引用されてはいないものの、バイロン文学を主題とする作品群も数えないわけにはいかない。イギリスの詩人ジョージ=ゴードン・バイロンは、義勇軍としてギリシア人の戦いに身を投じるべくミソロンギへと向かい、1824年に同地で37歳の若さで病没した。彼の死は、フランスにおけるギリシア支援の気運をいっそう盛り上げることになった(注10)。もとよりバイロン文学の愛好者であったドラクロワも例外ではなく、《ミソロンギの廃墟のギリシア》の―533――533―
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