鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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IV.2つのオリエント主題:ボツァリスとバイロン文学にも取り組んでいたからである。では、各画題の内容と作例を、比較検討しつつ確認したい。まず、マルコス・ボツァリス(Markos Botzaris)はギリシアの独立運動の中心的な人物であり、山岳民族スリオット出身のパルチザンであった(注11)。彼はミソロンギ守護に奮闘したことで名高く、1823年8月21日の夜、オスマン・トルコ軍の陣地へ奇襲を仕掛けて勝利を収めたが、戦闘の最中に弾丸を額に受け落命した。この劇的な生涯が報道や報告記を通してフランスに伝えられると、ボツァリスは親ギリシア主義者たちに熱狂的に支持され、ギリシア人の戦いを象徴する英雄像となった。こうした背景により、1824年から1826年頃、ボツァリスの挿話を題材にした絵画・版画・デッサンが数多く現れる(注12)。ドラクロワは、ちょうど《キオス》の制作に専心していた1824年4月12日の日記に、「〈ボツァリス〉の大きなエスキスを描かなければならない。恐怖に襲われ、不意を突かれたトルコ軍は互いに飛びかかって同士討ちをしてしまう、等々」と書き留めている(注13)。つづいて5月1日には、「《ボツァリス》の絵に核心を見出した」とあり、すでに制作に着手しているようである(注14)。1枚の大きな水彩素描は、この時期に描かれたのだろう〔図8〕。画面右のギリシア人グループ、スリオットたちは、傷を負い倒れ込みつつあるボツァリスを中心に構成されている。右手を高く上げて天空を仰ぐ彼は、その身体を抱き留める者、指揮官の負傷に気付きとっさに振り返る者、あるいはトルコ軍に向かってなお剣を振りかざす戦士らに取り囲まれる。ドラクロワは結局、このボツァリスの計画をカンヴァスに描く途中で放棄したようだが(注15)、最晩年にあたる1860年代に再び同主題に立ち戻っている(注16)。次に、バイロンの詩に基づいた制作の方はどうだろうか。先に述べたように、親ギリシア主義者の代表格であるバイロンの作品群は、1826年のルブラン画廊の展覧会と1827-28年のサロンにおいて多くの画家に取り上げられた(注17)。ドラクロワは、ボツァリスについて語る前日の1824年4月11日の日記において、初めてバイロンの名に言及し(注18)、約1ヶ月後の1824年5月10日には「〔…〕『ジャウール』を一部読んだ。これの連作を制作せねばならない」と述べている(注19)。そして翌日の11日に早速、アトリエで「《ハッサンとジャウールの戦い》の制作に着手した」(注20)。バイロンが1813年に出版した叙事詩『ジャウール』は、オスマン・トルコ支配下のギリシアを舞台としている(注21)。異教徒(キリスト教徒)を意味する「ジャウー―535――535―

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