鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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結がり、その両側には2人の人物が倒れ伏している。こうしたピラミッド型の構成を有する戦闘場面は、石墨デッサンRF 10035の構成と共通してはいないだろうか。ドラクロワは最終的に、《キオス》の中景で戦闘員らを横一列に並べるという帯状の構成を選択したが、「ボツァリスの戦い」か「ジャウールの戦い」の構想である可能性のある素描と、類似した構成を探っていることをこそ強調したい。つまるところ、ドラクロワは歴史画に「キオス島の虐殺事件」という同時代史を表すことに決め、ギリシア系住民の様子を大きく描くことにした一方で、戦いの場面に関して彼の想像力を刺激したのは、ミソロンギでのパルチザンの戦死であり、イギリスの詩人の情熱的な文学作品であったことだろう。さらに言うと、ドラクロワによるオリエント主題の混合は、他の油彩画においても確認できる。一例を挙げれば、『ジャウール』に基づいたドラクロワ作品は5点あると先に述べたが、1984年の展覧会カタログは、少なく見積もっても6点存在すると判断し、絵のタイトルに「ジャウール」という言葉が入れられていない《山岳で殺されるトルコ士官》〔図11〕も含めている(注25)。本作はギリシア独立戦争の一場面であるように思われるが、そうかといって、画面の具体的な描写によって、どちらかの主題に帰することもまた難しい(注26)。以上、《キオス》の中景の戦闘場面は、他の2つのオリエント主題と融合しつつ練り上げられた可能性が高い。この中景が、後からはめ込まれた1枚の絵のような構成になっているのは、こうした生成過程に起因するように思われる。まだ現実のオリエント世界を目にしていない画家は、同時代史も物語も積極的に主題として取り上げ、複数の制作を並行して進めていった。それは結果的に、明確な主題をもたない融合体的作品群を生み出すことに結びついた。このような不明瞭さこそ、ドラクロワの1820年代のオリエンタリズムを特徴づけるものであり、彼固有の幻想性を支えていると言えよう。謝辞本研究にあたっては、パリ・ナンテール大学のMarc Décimo教授、近代ギリシア表象に造詣の深いフランス国立図書館学芸員Anne-Laure Brisac-Chraïbi 氏ならびにトゥール城美術館館長Hélène Jagot氏より、貴重なご助言やご指摘を賜りました。心から感謝申し上げます。―537――537―

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