鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
581/604

ロックの《月女》や《男性と女性》と比べると、それらほどのまとまりもなければ強度もなく、質的には劣っているように思われる。しかしながらモンドリアンは、「若手芸術家の春のサロン」に提出されてきた他のさまざまな者たちの仕事と比べて、《速記の人物》における上述のポロックの果敢さを、アメリカの若手芸術家の仕事として高く評価したのだろう。そして、そのモンドリアンの慧眼に導かれて、ペギーもポロックの仕事に深い関心を持つようになるのだった。ポロックに大きな可能性を見出したペギーは、画商として彼を支援していくことにした。彼女はポロックの生活と制作を支えるために、1943年7月に彼と一年間の契約を結び、彼に毎月150ドルを払っていくことにした。ペギーはまた、その契約とは別に、彼女の自宅が入っているビルディングのエントランスホールを飾るための巨大な絵画の制作を、ポロックに注文した。自分自身の生活空間の一部を大きく占めることになるそのような特別な作品をポロックに依頼したということからも、ペギーがいかにポロックの芸術を気に入り、彼に肩入れしていたかが分かる。ポロックはこれによって、かつて師ベントンやオロスコなどメキシコの壁画家たちの壁画の仕事に接して心惹かれたであろう大画面に、自分自身の制作として取り組む貴重な機会を得る。ペギーから言われた大きさは、当時のポロックにとっては、他人からの注文でもなければ非現実的なものであった(ポロックはその作品の制作のために、彼のアパートメントの一壁を壊して制作スペースを広げることになった(注9))。そうしてこの時に生み出された作品が、《壁画》(1943年)であった。《壁画》は、ポロックの形成期の中核的作品となる。《壁画》は、243.2×603.2センチにもなる、文字通り「壁画」的なサイズのものであった。それはポロックにとってかつてない大作であったが、そこにおいて彼は、初期の《無題[オーヴァーオールな構成]》(1934~38年頃)以来数年の間を空けて、オールオーヴァーな構成を再びなすことになる。《壁画》ではポロックは、荒々しいほどに力強い筆致で抽象化した人間の像のようなモチーフで、画面を一方の端からもう一方の端まで、横方向に反復的に埋め尽くしている。《壁画》の主題に関しては、ペギーは、その絵にはいくつもの「リズミカルに踊る抽象的な像」が一続きになって描かれていると言っている(注10)。他方、ポロックの親友だったハリー・ジャクソンがポロック本人から聞いたところによれば、はじめポロックはその画面に「馬ホース・スタンピードの集団暴走」を具象的に描こうとしていた。しかし、それは自分には能力的に無理だと分かったポロックは、そのことに憤って激しい身振りで描き、それがこのような抽象画になったという(注11)。(ただし、この話から《壁画》―569――569―

元のページ  ../index.html#581

このブックを見る