て、本作を別の角度から読み解く新たな視座を示唆した。また第2部では、「キリスト教誕生以後の西洋」という時空の枠組みを超えたとき、マーク・シェル(Marc Shell; 1947-)の提示する見方─貨幣(とくに硬貨)は、神でありつつ肉体を備えた人でもあるイエスのように、理念と現実、精神と物質の一体化した顕現であるという見方─がどこまで妥当するかという問いかけや、貨幣の感性的側面へのアプローチの可否に関する再考が試みられた。深谷は、ヤン・ファン・ケッセル(Jan van Kessel I; 1626-1679)作《アジアの寓意》の前景に描かれた5点の硬貨をエンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer; 1651-1716)の『日本誌』等を手がかりに読み解くとともに、バタヴィアにおける慶長小判の流通など、近世における越境的な貨幣流通の問題を取り上げた。またキリスト教の伝来とともに広まったメダイなどの事例を検討することで、西洋と日本の硬貨/メダルに対する態度の相違点や共通点を論じた。杉山准教授の考察は、そもそも大量生産物である貨幣を感性的な見地から語ることが可能かという根本的な問いから出発したものである。感性的な諸要素が使用者の信頼を得るうえで重要だということを論証したゴットフリート・ガブリエル(Gottfried Gabriel; 1943-)は、その説をゲオルク・ジンメル(Georg Simmel; 1858-1918)への反論として提示したが、発表では、ジンメルの貨幣論のなかにも感性的な側面への着目があることが指摘され、その再読が試みられた。さらに本コロキウムでは、コインと隣接するところに存在しつつ、美術と貨幣という議論ではともすると等閑視されてきたメダルについても考察を広げた。特に第3部では、特定の社会的文脈におけるメダルの活用について興味深い事例報告が行われた。ヤン氏は、17世紀オランダの結婚記念メダルを扱った発表において、富裕な家系の結婚に際して、両家の繫栄と権勢が、親しい友人たちや親戚に配られた結婚記念の出版物やメダルを通じて誇示され、社会的紐帯とステータスを形作る役割を果たしたことを紹介した。本コロキウムで導入されたメダルという着眼点については、ウッドール教授の基調講演でも触れられ、かつディスカッションの際にも重要な論点の一つとなった。メダルは貨幣や通貨とは異なり、制作数も限られ、かつ流通上の額面は持たないが、素材や図像に関してみると、硬貨との類似点は大きい。ウッドール教授が紹介したように、絵画に描かれたイメージからは、それが硬貨とメダルのいずれを意図したものか判別できない場合もある。また、ブラバントの造幣局長官であったヤーコプ(ジャック)・ヨンゲリンク(Jacob Jongelinck; 1530-1606)がメダル制作者であったように、時には貨幣としてのコインと、美術品としてのメダルの制作者が重なることもありえた。―575――575―
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