鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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の目玉となった展示室である〔図3〕。全長120メートルのギャラリーには、オラース・ヴェルネ(1789-1863)ら七月王政期を代表する画家の作品32点がひしめき、大画面にフランスの歴史を彩る戦闘が繰り広げられた。この他にも博物館には、フランス史を多角的に表すために様々な展示室が設えられ、1848年の二月革命によってルイ=フィリップが失脚するまでに「栄光の記念碑」として総計3千点超の絵画と彫刻が制作された(注6)。1837年刊行の案内本によると、博物館には開館直後から「海軍の戦争や海上での戦闘を配した2室」が設けられていた(注7)。この展示室は宮殿中央部の「大理石の中庭」に面する小規模な部屋だったが、1839年頃により広く大画面作品の展示に適した「海事の間」(注8)が新設された。陸上と海上の出来事を区別して海景画専用の展示室を設置した理由は不明であるが、ボンファンティが指摘するように、ルイ=フィリップとフランス海軍の深い関係は博物館の展示構成に少なからぬ影響を与えたと考えられる(注9)。国王の父ルイ=フィリップ2世は王族ながらも1778年にフランス東端ウェサン島沖の海戦でイギリス艦隊と対戦した軍人で、ギュダンが手がけた幅3.5メートルの大作《ウェサン島の海戦、1778年7月27日》〔図4〕は、彼の功績を讃える記念碑として制作された。なお「海事の間」は1840年代から複数回の移動と改修を繰り返したため、公衆の目に触れた時期は僅かだったと推察される。博物館開館の1837年から、第二帝政期が終焉を迎える1870年までの「海事の間」の変遷は〔表1〕と〔図5〕に示す通りである(注10)。第2期の展示期間がごく短期だったことを考慮すると、一般公開の可能性が残されているのは第1期と第3期の「海事の間」である。第1期の展示室は、壁面装飾が完成した1840年1月から(注11)、隣接する「十字軍の間」が拡張される1843年まで約3年存続していたと考えられる。この時期「海事の間」の面積は最も広かったものの、注文画の大半は未着手であり全室が公開された可能性は低い。一方で第3期は完成作が増加していく時期にあたるが、1848年の政権交代を受けて展示室の工事が完遂しなかったようである。そのため当時の展示室の様子は、画家ジャン・アロー(1786-1864)が手がけた壁面装飾のスケッチ〔図6〕や、このスケッチと類似する装飾が施された他の展示室の様子〔図7〕から想像されるのみである。4.テオドール・ギュダンの海景画の注文経緯と特徴「海事の間」の設置に合わせて、海軍公認画家ギュダンは96点の海景画の注文を一括で受けることになった。この1839年の絵画注文によってフランスにおける海景画の―49――49―

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