⑵ 海外派遣① 二〇世紀ドイツ語圏における美術史学とイデオロギー─ハンス・ゼードルマイヤにおける中世の受容NSDAP(国民社会主義ドイツ労働者党、いわゆるナチ党)の記憶がいまだ鮮明に残っていた1951年、ミュンヘン大学の美術史学教授にゼードルマイヤが就任するという一報が流れた。彼が『大聖堂の生成』(この著作については後に詳しく見ていくことになる)を出版した翌年のことである。すでに第二次世界大戦前から美術史学を牽引する存在であったとはいえ、過去にナチスに加担したとしてウィーン大学を解職されていたゼードルマイヤを新任の教授に抜擢するという選択は、当然のことながら大きな物議を醸した(注1)。招聘に対する反対運動が、大学教員有志と、学生によってそれぞれ組織された。教員の運動の中心的役割を担ったのは、四年前に創設されたばかりの中央美術史研究所所長ルートヴィッヒ・ハインリッヒ・ハイデンライヒをはじめとして、『大聖堂の生成』を痛烈に非難したエルンスト・ガルなども参加した。彼らは大学の哲学科部会に抗議文書を提出し、彼らの意見を表明した。学生の運動の主唱者は、マルティン・ゴーゼブルッフとヴィリバルト・ザウアーレンダー(中央美術史研究所の二代目所長)であり、こちらはゼードルマイヤの就任講演の妨害などを画策していた。ところが、こうした抗議活動も虚しく、ミュンヘン大学が当該の人事決定を覆すことはなかった。期 間:2023年5月1日~6月30日(61日間)派 遣 国:ドイツ連邦共和国報 告 者:京都大学大学院 人間・環境学研究科 博士課程後期はじめに今回、鹿島美術財団とミュンヘン・中央美術史研究所(Zentralinstitut für Kunstgeschichte)双方の提携協定を利用して、二ヶ月間、当研究所のフェローとして在外研究を行う機会に恵まれた。採択された研究プロジェクトの主題であるハンス・ゼードルマイヤと、わたしが滞在することになった中央美術史研究所との因縁について触れることから、この報告文を書き起こしてみたい。中央美術史研究所は、考古学研究所やミュンヘン大学の諸施設などとともに、もと―577――577―二 宮 望
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