鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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もとナチ行政棟(Verwaltungsbau)として使われていた建物に居を構えている。ナチスの略奪品を収容しておくために、アメリカ軍によって「セントラル・コレクティング・ポイント(Central Collecting Point)」が置かれた場所でもある。このことからもわかるように、研究所はその土地がナチスの過去と密接に結びついたものであったからこそ、政治的なイデオロギーと美術史との不可分な関係について人一番敏感な問題意識を堅持してきた。以上からわかるとおり、研究所にはゼードルマイヤ、ひいてはナチスのイデオロギーに批判的な立場を取ってきた歴史がある。本稿もまた、研究所に継承されてきたこのメンタリティのもとに書かれている。イデオロギーに染まる「ゴシック」ゼードルマイヤが、彼の中世建築研究の集大成ともいえる『大聖堂の生成』(一九五〇年、初版)を執筆・出版した一九四〇─五〇年代は、名だたる美術史家たちがゴシック大聖堂論を立て続けに発表した未曾有の時期であった。一九四六年にエルヴィン・パノフスキーが画期的な翻訳・研究業績『大修道院長シュジェ』を刊行すると、堰を切ったようにルイ・グロデッキ『フランス教会のステンドグラス』(一九四七)、オットー・フォン・ジムソン『ゴシックの誕生』、(一九五〇)、ギュンター・バントマン『意味伝達物としての中世建築』(一九五一)が続いた(注2)。ゴシックの生誕地とも言われるサン・ドニ修道院院長シュジェのテクストをパノフスキーが紹介したことで、この研究領域に活気が生まれ、そうした同時多発的な研究書の刊行につながったのだとさしあたりの説明を与えることも可能だろうが、いくつもの要因が重なった偶然の産物であったというのが実情であろう。ゼードルマイヤに関して言えば、実は彼のゴシック研究の端緒は、すでに第二次世界大戦以前にさかのぼる。自身の証言によれば、彼が大聖堂研究へと乗りだしたのは、一九三一年の講演「ヘレニズム期と帝政ローマ期と中世後期の建築」におけるオットー・ペヒトとのやり取りを直接の契機としているという。もともとウィーン工科大学で建築を学び、建築家を志望していたこともあるゼードルマイヤは、芸術研究へと転向した後も、この空間芸術の一ジャンルに多大なる関心を寄せていた。一九二三年、ウィーン大学に提出した博士論文はオーストリアのバロック建築家ヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハ(Johann Bernhard Fischer von Erlach)についてであり、その後もフランチェスコ・ボッロミーニのモノグラフを一九三〇年に著している。出発点であったバロック建築研究のかたわらで、ゼードルマイヤは古代末期からヘレニズム期の建築にも関心の幅を広げ、その延長線上に中世建築の領域―578――578―

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