が開けてきたのである。一九三三年には講演をもとにした論文「最初の中世建築体系」が上梓され、徐々に『大聖堂の生成』にいたる研究が蓄積されていく。第二次世界大戦の勃発によって、外国語文献の収集に支障をきたすことになるが、それでも三六年には『大聖堂の生成』第一部の要諦となる「大聖堂の現象」を書きあげ、同年ウィーン大学美術史講座教授就任講演において、大聖堂論がふたたび披露された。ゼードルマイヤの中世受容を考えるうえで、ゴシック大聖堂へと至る彼の研究遍歴に加えて見過ごすことができないのが、二〇世紀初頭ドイツ語圏で深化していったゴシックのイデオロギー化である。とりわけドイツでは、第一次世界大戦後の不況や社会不安を背景にして、近代社会に対する不信が募り、その対極にあると考えられていた中世という時代を理想化する傾向がいたるところで高まっていった(注3)。すなわち、産業化・都市化・個人主義化していく近代の矛盾が露呈し、その反動として前近代的な共同体への回帰を唱える潮流が、青年運動のような社会実践だけでなく、美術史を含む学術研究の領野でも顕著に見られるようになっていったのである。こうした動向は、ファシズムを支持するイデオロギーにまで繋がっていくことになるのであるが、第二次世界大戦下の政治的動乱が収束した後も止むことがなかった。一九四〇、五〇年代にゼードルマイヤが主唱した強烈な近代批判と中世回帰は、その典型例である。第一次世界大戦前までは近代文化に寛容な姿勢を示していた彼も、戦間期の混迷した政治情勢に触れるうち、反動的な思想に取り込まれていった(注4)。フランス革命以降の近代芸術一般を人間性と神を失った文化─これが彼の言う「中心の喪失」という事態である─として断罪する彼の反近代主義は、それを埋め合わせるゴシック待望論とセットで唱えられる。彼のゴシック大聖堂研究は、近代芸術の退廃を憂いた『中心の喪失』ほど政治色は強くないものの、暗に現代社会に対するメッセージを含んでいる。これまでにも、こうしたゼードルマイヤのゴシック大聖堂研究が帯びている政治的な偏向について指摘されることはあった。ヴィルヘルム・シュリンクは、ゴシック大聖堂を「天井のエルサレム」の模像とするゼードルマイヤの解釈(これについては次節で詳しく説明する)を彼の保守的なカトリシズムに由来するものとして批判した(注5)。彼は戦後になってからいっそうカトリックへの信仰を深めるようになり、その時期に本格的に着手しはじめた大聖堂研究は一面でそうした私的な宗教的帰依を強く感じさせるものである。今回、研究助成を受けて実施したゼードルマイヤのアーカイヴ調査で、筆者は興味深い資料に出くわすことができた。それは、ナチ政権下の一九三九年夏学期にゼード―579――579―
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