鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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傍証に用いながら、そのような考え方がゴシック教会堂を導いた建築理念であったことを主張した。一次文献にもとづく緻密な調査というよりは、二次文献の都合の良いパッチワークによって、みずからの学説を恣意的に組み立てたようにも思える『大聖堂の生成』には、当時から多くの批判が殺到した。それにもかかわらず、ゼードルマイヤは自説を頑なに堅持して譲らなかった。おそらくそれは、この主張が実証的な反駁や概念規定の細分化だけでは覆されることのない絶対的な確信から導き出されてきたものであったからだろう。模像説は狭義のキリスト教建築に限定されることのない、より広い建築史の射程のもとに理解される必要がある。建築という芸術ジャンルは天国や宇宙といった壮大な世界観をそのまま写し出し、現実空間の秩序づけを果たすものであるというのがゼードルマイヤの信念であった。古代エジプトの神殿からバビロニアのジッグラト(聖塔)まで、宗教的な彼岸を模像的にあらわす建築は歴史上繰り返し現われてきた(注10)。そのような見地からすると、ゴシック大聖堂は模像芸術としての建築の歴史のなかに正当な位置を持つものであり、これまで建築史のなかで主流とみなされてきた抽象的な組成からなる建築物は特異な事象へと転落することになる。建築をもっぱら非再現芸術とみなす基準は西洋近代というひとつの例外時から生み出されてきた価値観にほかならず、模像説はそうしたドグマに疑義を挟むものであったのである。さて、模像説と並んで『大聖堂の生成』の議論の骨格をかたちづくるのが、「光の美学」である。一九四六年、エルヴィン・パノフスキーはサン・ドニ大修道院長シュジェの手による一連のテクストの翻訳を手がけ、そこに付された冒頭の解題で、これらの著作がサン・ドニに伝来していたディオニュシオス・アレオパギテスの光の形而上学の影響下にあるものであることを指摘した(注11)。絶対的一者を「真の光」と同一視するネオプラトニズムの教義は、シュジェが観察する大聖堂各所の記述と共鳴している。主祭壇のまわりに散りばめられた宝飾品の輝きは、神聖なものが属すはずのない物質界の現象ではあるが、まばゆい光の凝視を通じてそれは恍惚とした宗教体験へと姿を変えるというのである。ゼードルマイヤは『大聖堂の生成』で、パノフスキーが再構成したこのシュジェの宗教的・芸術的感性をみずからの大聖堂論の立脚点として踏襲し、あらためて「光の美学」と名づけている(注12)。ゴシック期に涵養されたこのような宗教的感性は、大聖堂の模像性に合流することになる。周知のように「天上のエルサレム」のイメージは、黙示録このかた、まばゆいばかりの光の輝きと不可分に結びつけられてきた。ここに、模像芸術としての大聖堂とネオプラトニズム的な光の美学との予定調和的な結合が樹立され、ゼードルマイヤの芸術史観を揺る―581――581―

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