鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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注⑴ Cf. Willibald Sauerländer, Der Münchner Protest gegen Berufung Hans Sedlmayrs im Frühjahr 1951, In. Christian Drude und Hubertus Kohle (Hrg), 200 Jahre Kunstgeschichte in München Positionen・Perspektiven・Polemik 1780-1980, Deutscher Kunstverlag, 2003; Jutta Held, エーションであるとみなされても仕方がないのである。本研究の最終的な目的は、ゼードルマイヤの大聖堂論を手がかりにしつつ、二〇世紀にかつてないほどの発展を遂げた美術史学の可視化されざる「条件」を明らかにすることであった。美術史家が過去の芸術作品に向き合うとき、それは実証的な歴史研究である限りで価値中立的なものであると通常考えられているが、ゼードルマイヤのケースが示しているのはそこにはさまざまな思惑や期待を孕んだ複雑な態度が伏在しているということである。むろん、今回の場合のようにあからさまな政治的傾向が前景化してくることは稀なことではあるだろう。それでも、一昔前に書かれた研究を参照するときであれ、みずからの立論を構築するときであれ、芸術研究で暗に前提とされている認識を自覚的に問い直す作業はいつの時代も疎かにすることはできない学問の必須要件なのである。※本稿は、中央美術史研究所で六月一四日に行った研究発表にもとづき、適宜、ザルツブルクでのゼードルマイヤのアーカイヴ調査の内容を盛り込んだ報告論文である。ゼードルマイヤの遺稿の閲覧にあたっては、ハンス・ゼードルマイヤの御息女であるスザンヌ・ゲリトー=ゼードルマイヤ氏の承諾を頂いた。また、ザルツブルク州立資料館での調査を支援していただいたゲルダ・ドーレ女史、中央美術史研究所への受け入れに尽力していただいたイリス・ラウターバッハ教授、研究所所長ウルリッヒ・フィステラー教授、仲間裕子教授(立命館大学)、佐藤直樹教授(東京藝術大学)、滞在中に数々の有益なアドヴァイスをくれた研究所のフェローや研究員の方々、各氏にここで感謝を申し上げる。※本稿第二節「天井のエルサレム、あるいは光のゴシック建築」は、既出の拙稿(二宮望「ハンス・ゼードルマイヤによる大聖堂のイコノロジー」、『形象』第五号、二〇二三年、五一-六四頁)を要約したものであり、一部内容に重複があることをお断りしておく。雑誌『形象』の編集を務めている三木順子教授(神戸女学院大学)には、部分的な転載を快諾していただいた。この場を借りて、感謝を申し上げる。―583――583―

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