6割を占めるようになった(注18)。フランスの全ての栄光を視覚化するという目的のもと、注文画の舞台は14世紀から19世紀まで、フランス沖から太平洋の島々まで多岐にわたった。また、「海事の間」の前身である「海軍の戦争や海上での戦闘を配した2室」は、その名の通り海戦画が集められた部屋だったのに対し、1839年の注文では大航海時代の探検旅行や、植民地の開拓に関わる主題が付け加えられている。ヨーロッパ外の地域を舞台とする作品の増加傾向は、当時のフランスにおける植民地拡大とオリエントへの文化的関心の高まりを反映するもので、ギュダン作品にも民族衣装をまとう人物などが意識的に取り入れられている。例えば、《セント・ローレンス河を発見するジャック・カルティエ、1535年》〔図9〕でギュダンは、最前景の最も目立つ場所にネイティブ・アメリカンのイロコイ族の姿を描き込んでいる。また同作品の造形的な特徴として興味深いのは、画面の大部分を占めるのが雄大な自然風景である点である。船乗りとしての経験を有するギュダンは、時刻や天候による海の表情の変化や、海上に発生する霧や蒸気船の煙の効果を熟知していた。そうした経験を活かしギュダンは、人物や船舶を点景として、クロード・ロラン(c. 1600-1682)の神話的風景画を思わせる海のパノラマを描き出した。このように「海事の間」のための注文画は、史実を題材にしながらも過度に説明的にはならず、海の風景を情感豊かに表現するものだった。5.ギュダン評にみる海景画コレクションの受容残念ながら現時点において「海事の間」を実際に訪ねた人物の日記等は確認できていないが、サロンに出品された作品に関するテクストは数多く残されている。特にギュダンが1839年から1848年にかけて発表した51点の注文画に関する作品評には、国家注文による海景画の是非を問うような記述も散見される。まず「海事の間」の注文画が初めて展示された1839年のサロン評では、ギュダンの引き受けた仕事に関する言及が確認できる。その大半は公的注文にあずかったギュダンの名誉を強調するもので、しばしば「戦争のギャラリー」の大作を手がけたオラース・ヴェルネとの共通性も指摘された。例えば『ラルティスト』誌でジュール・ジャナンは、ギュダンを「オラース・ヴェルネ氏が陸上で戦ったのと同じくらい多くの海戦を経験」した画家であり「オラース・ヴェルネ氏が勇敢な歩兵であるのと同様に、勇敢な船乗りである」(注19)と評価した。またオラースとギュダンの評価は、前者が迫力ある戦闘図によって注目されたのに―51――51―
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