鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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⑦ 岡田米山人・半江の文人画研究研 究 者:三重県立美術館 学芸員  村 上   敬はじめに大坂画壇の特色として、サロンという言葉に象徴される、「身分を越えた大坂知識人社会特有の水平性」(注1)があげられる。この主張の前提として、個々の画人の身分が措定されていなければならないが、19世紀の大坂画壇を牽引した岡田米山人(1744~1820)と、その子、岡田半江(1782~1846)の身分については曖昧なままとなっている。たとえば、米山人について、『新潮世界美術辞典』では津藩の儒学者とされ(注2)、『日本美術全集』では津藩大坂蔵屋敷の留守居役とされている(注3)。最も有力な説は、津藩大坂蔵屋敷の留守居の「下役」とする見方であるが、その実態も明らかではない。いずれも士分であれば同じ、とはならないであろう。津藩の分限帳『安政四巳正月寫津御家中席附』(1857年写)によれば、城代から数えて、大坂蔵屋敷の留守居役は21番目、儒学者は56番目、留守居の下役は236番目にあたる。つまり、身分が全く異なる上、下役に至っては無足人とほぼ同位である。津藩における無足人とは、基本的に俸禄を得ず、公用に奉仕する者をいう(注4)。身分を越えた大坂知識人社会特有の水平性は、たしかに大坂画壇の特色であると考えられるが、大坂画壇を代表する米山人と半江の身分が曖昧なままでは、その実像はわからないのではないか。そこで本研究では、米山人と半江の身分について考察することとし、その境遇を彼らの作品を成立させた背景的要因の1つとして捉えたい。1.家業の米商についてまず、岡田父子の家業である米商に関し、これまでに判明している事実を整理しておきたい。家業が米商であったことについては、父子と親交のあった田能村竹田(1777~1835)の『竹田荘師友画録』(1833年脱稿)に記述があり、論を俟たない。ただ、その実態について多くが不明である。一般的に、「米山人」の号は家業に由来するとされるが、典拠となる一次資料はなく、慶應2年(1866)頃の成立と目される宇都宮大潔(1804~1875)の『播磨奇人伝』(東京都立中央図書館加賀文庫蔵)に基づく説である。一方、父子との交誼が知られる浦上玉堂(1745~1820)の旅行記『北遊草』は一次資料といえるが、本書によれば、寛政元年(1789)3月15日、懐徳堂にて米山人と初会した際、米山人は「吾甞喜写米山。自號米山人」(吾れ嘗て米山を写すを喜び、自ら米山人と号す)と自称したという(注5)。この「米山を写す」の意味―67――67―

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