鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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は、おそらく米法山水を描くことであると解されるが、半江が若年の一時期「小米」の号を用いたことを併せて考慮するならば、中国の米芾(1051~1107)、米友仁(1074~1153)への憧憬の念が読み取れる。米山人の号は多義的であった可能性があり、米山人にとって米商であることが、生涯使用した号に冠するほどの自己同一性であったか否かは不明である(注6)。米山人が大坂で米商を営んでいた時期は、森銑三が紹介した、安政4年(1857)8月27日付の奥村徳義(1793~1862)の書簡に基づき、「天明安永頃」と推測されている(注7)。また、『蒹葭堂日記』(大阪歴史博物館蔵)には、寛政3年(1791)10月6日および寛政6年(1794)1月18日の条に、「米彦」とみえるが、これは米山人の屋号「米屋彦兵衛」の略称に違いなく、寛政年間に入っても米商を営んでいたと思われる(注8)。一方で、半江と交流のあった斎藤拙堂(1797~1865)の門下生であり、津藩校有造館の典籍、すなわち現在でいう司書を務めた櫻木春山(1822~1903)の談話によれば、米山人は幼子の半江を携えて久しく津に客寓したことがあったといい、天明の頃、すでに津藩との関係を有し、大坂を離れていた時期があった可能性がある(注9)。なお、米山人は「西天満寒山寺裏長池」に米商の店舗を構えていたとしばしばいわれるが、この住所は、文政7年(1824)頃、半江が伊賀の大庄屋、宮川精太郎へ宛てた書簡(個人蔵)に店舗への案内として記されたものであり、米山人の没後数年を経た情報である(注10)。つまり、米山人の代から店舗型の商いを行っていたか否かは判然としない。米山人が営んでいた米商について、一定の蓋然性が認められるのは、その労働の態様であり、先の諸書『竹田荘師友画録』、『播磨奇人伝』、奥村徳義の書簡は一貫して、米山人が自ら臼を踏む米商、すなわち米搗であったことを示唆している。米搗は、小売米商であるが、その仕事の性質よりみると商人よりは寧ろ職工に近い境遇にあったとも考えられる。2.津藩における身分について『竹田荘師友画録』によれば、米山人は「既長事藤堂侯移住其邸」(既に長じてから藤堂侯に事へ、移つて其の邸に住す)、すなわち年を重ねてから津藩大坂蔵屋敷に住み込みで仕えることになったが、その開始時期については別稿で論じた通り、寛政5年(1793)から寛政8年(1796)までのいずれかの時点であると推定される(注11)。そして、米山人の役目は半江に引き継がれ、半江が文政5年(1822)に致仕するまで、父子二代に亘り津藩に仕えることとなった。―68――68―

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