鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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津藩の家臣は、江戸時代初期より、伊賀付、津付、江戸付に分けられる。大坂蔵屋敷にいる家臣は、伊賀付の家臣であり、伊賀城代の管轄下に置かれる。したがって、津藩における父子の動静が知られ得る藩庁文書としては、伊賀城代家老日誌『廳事類編』(伊賀市上野図書館蔵)、藤堂高兌(1781~1825)治世時の分限帳『文政三辰歳十月改御家中附全伊賀城京坂御家中附』(個人蔵)などがあるものの、『廳事類編』の下記1ヵ所を除いて父子の名を見出せないため、中核的な家臣であったとは考えがたい。『廳事類編』に半江の名(岡田卯右衛門)が登場するのは、神山登氏が指摘した通り、文化6年(1809)3月29日の下記の条である(注12)。一、七里鎌倉兵衛病中一人役ニ付差支之節、手代岡田卯右衛門小役人並御取立被下、名代爲相勤度願出候事(注13)この意味は、鈴木圭吾氏によれば、「七里鎌倉兵衛が病中であるが、一人役のため差支えている。よって手代の岡田卯右衛門を小役人並にお取立下さって、名代として相勤めさせたいという主旨の書類が文化六年三月二十九日に提出された」である(注14)。なお、ここでいう名代とは、大坂蔵屋敷の名義上の所有者を指す名代ではなく、あくまで留守居の代理を指すことはいうまでもない。その後、半江が「小役人並」に取り立てられたか否かは『廳事類編』からは判明しない。もっとも、文化11年(1814)、八尾の初日山常光寺における藤堂家士の大坂夏の陣戦死200回忌法要に際し、位牌堂等建造物の普請のための拝借金について、半江が常光寺と津藩の周旋役を担っていることが同寺院に伝わる複数の書状からわかる(注15)。その他、津藩関係史料ではないものの、森銑三が紹介した、立原翠軒著『此君堂漫筆』(静嘉堂文庫蔵)の浦上玉堂の談話を筆録した部分に「藤堂家の留主居七里鎌倉兵衛といふ人、大阪の留守居にて加島町に住す。此人の下役に米山人といふ人あり。其子を庄兵衛といふ」(注16)と載り、水戸藩士、岡野行従(1775~1820)が作成した人名簿の欄外に「藤堂和泉守殿大坂留守居役、七里鎌倉兵衛、號玩古、同人下役米山人(岡田彦兵衛)半江(彦兵衛子、宇左衛門)」(注17)と留め書きがみえる。つまり、米山人は大坂蔵屋敷に下役として仕えていた。大坂蔵屋敷の下役は、『安政六年正月改伊賀分限帳』(1859年、個人蔵)によれば、「23俵3人扶持」の俸給を受ける身分である。―69――69―

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