鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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3.津藩における居所について岡田父子の津藩における地位は決して高いものとはいえず、このような下級武士の個別的な登用経緯の解明には史料的な制約を伴う。父子についても不明である。そこで仮説を立てたいが、米山人は留守居、七里鎌倉兵衛との個人的な関係を通じ、米搗としての経験を買われ、蔵屋敷の職を得るに至ったのではないか。一般的に、大坂蔵屋敷に居住する役人は、1年~数年程度の任期で国許から派遣された者のほか、大坂町人から調達された。徳山藩では、船場の「売画」渡世河内屋作兵衛が「船手の業も少々心得」ているという程度の理由で舸子として召し抱えられた例がある(注18)。多くの藩において、江戸藩邸では日常業務の維持に大量の奉公人、日用を調達する必要があったが、大坂蔵屋敷では大坂町人から調達された「仲仕」が年貢米の搬入のみならず、広汎な雑役を担ったとされている(注19)。仲仕は、小規模な蔵屋敷であれば近隣に居住して通勤する場合があったが、屋敷内に小屋を与えられ、刺米を役得として家中奉公する場合もあった。岡田父子が仲仕であった可能性は捨てきれない。米山人の住所は、従来指摘されている通り、『浪華郷友録』(1790年)をもとに、寛政2年(1790)時点で「天満空心町」、そして『浪華画家見立角力組合三幅対』(1807年)もとに、文化4年(1807)時点で「スズカ丁」である。空心町は、津藩大坂蔵屋敷のあった鈴鹿町の隣町である。米山人が蔵屋敷に移住した時期は、別稿で論じたので本稿では詳述しないが、寛政5年(1793)から寛政8(1796)年の間と推定される(注20)。よって、米山人ははじめ津藩の隣町から蔵屋敷に通勤していた可能性があるが、そののち蔵屋敷に家中奉公するに至ったと考えるのが妥当であろう。いずれにせよ、米山人が蔵屋敷に居所を与えられ、そこを「正帆」と名付け、文人交流の場としたことは、実際にそこを訪れた、竹田の『竹田荘師友画録』、「逸詩文鈔」のほか、海量(1733~1817)の日記からわかる。蔵屋敷内における米山人の居所の様相について、『竹田荘師友画録』には「淀河相面」(淀川に相面し)、「逸詩文鈔」には「屋臨沙竹汀蘆」(屋は沙竹汀蘆に臨み)(注21)とあり、すなわち淀川に面し、家の前には竹や蘆が生える水際の砂地が広がっていたという。また、海量は、米山人の居所の周辺環境について、「東北望淀河」(東北は淀河に臨み)、「長提屈曲淀川流」(長堤は屈曲し、淀川が流れる)と述べている(注22)。これら文献からわかる米山人の居所の状況は、米山人がその居所を絵画化した作品、たとえば、米山人・半江筆《源潑図巻(源潑自宅景巻)》(個人蔵)〔図1〕、米山人筆《伊丹紀行詩画巻》(大原美術館蔵)〔図2〕、米山人筆《山水図》(1808年、個人蔵)〔図3〕、米山人筆《文人居宅図》(個人蔵)〔図4〕の内容と矛盾しない。さらに、―70――70―

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