この4点の作品を細かく見ると、米山人の居所は、比較的簡素な門の近くにあり、その門に通じる道を挟むようにして存在する2軒のうちの1軒であったことが判明する。居所の周辺には、2本の芭蕉、碁盤、芭蕉に水を遣るための天水桶か、あるいは金魚鉢のような物が配され、文人趣味の設えがなされている。4.絵図による検討第3章で述べた通り、蔵屋敷内にあった米山人の居所は、東北は淀川に面し、比較的簡素な門の近くにあり、その門に通じる道を挟むようにして存在する2軒のうちの1軒であったと考えられる。この情報をもとに、蔵屋敷の絵図と比較検討し、米山人の職務内容を検討したい。津藩大坂蔵屋敷については、これまでほとんど調査研究が行われておらず、寡見の限り、今日知られる津藩大坂蔵屋敷の絵図は、拙稿で以前紹介した「大坂天満御屋舗絵図」(個人蔵)〔図5〕のみである(注23)。今回、「大坂天満御屋舗絵図」のトレース図面〔図6〕を作成し、御殿の内部について分析を行った結果、御殿は、その役割から4つの空間に分類できるといえる。すなわち、図面上、①は接客空間であり、「玄関」「御広間」「屋敷守休所」など、②は台所空間であり、「土間」、「土蔵」、「井戸」など、③は役所空間であり、「会計局」、「手代休所」など、④居住空間であり、「屋鋪守手代長屋」「屋敷守属吏長屋」などで構成される。また、御殿から離れて、⑤「稲荷」、⑥「稲荷守居所」、⑦「仲仕居所」、⑧「仲仕住居」がある。先に述べた米山人の居所の特徴と一致するのは、図面をみて明らかであるが、⑦「仲仕居所」である。おわりに─津藩における文人交友─岡田父子が仕えた留守居、七里鎌倉兵衛は、藩祖、藤堂高虎の功臣の子孫にあたり、「玩古」の号をもつ文雅の士であった。その名は『浪華画家見立角力組合二幅対』に載る。また、鎌倉兵衛は、岡田父子とともに、文化3年(1806)2月12日、北野太融寺で開催された書画展に作品「荷郷清夏図」を出品したことが目録『新書画展観款録初編』(九州大学附属中央図書館相雨文庫蔵)からわかり、儒者、篠﨑三島の葬儀の際は、米山人とともに参列したことが『葬式列』(個人蔵)により知られる(注24)。父子と鎌倉兵衛の間には、藩における身分の大きな差を超えた交友があったといえる。また、鎌倉兵衛の没後まもなく、半江は大坂蔵屋敷の職を辞しているところをみると、そもそも父子が蔵屋敷に居住するに至った背景に、鎌倉兵衛との関係があった可能性もある(注25)。半江は、致仕した後も、津藩士との交友を続け、斎藤拙堂ほ―71――71―
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