鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
82/604

注⑴橋爪節也「『浪華郷友録』の聞人と大坂の文人画家の問題─木村蒹葭堂を中心として─」『関西大学東西学術研究所研究叢刊32東アジアの文人世界と野呂介石─中国・台湾・韓国・日本とポーランドからの考察─』関西大学東西学術研究所、2009年、13~20頁か数名の津藩士の訪問を受けた(注26)。これは、晩年の米山人の場合も同様で、津阪東陽、藤堂高基らとの親しき交友が知られている(注27)。橋爪節也氏は、大坂画壇の特色として、サロンという言葉に象徴される、「身分を越えた大坂知識人社会特有の水平性」をあげているが、岡田父子と津藩士、とりわけ鎌倉兵衛との交友は、まさしく身分を越えた文人交友であるといってよい。岡田父子が津藩における境遇、すなわち比較的低い身分にあることをいかに捉えていたかは定かではない。父子は「陸沈」(注28)の印を愛用したが、米搗や仲仕としての労働と、その日常から逃れることを1つの動機として、中国の文人生活に想いを馳せ、自ら絵筆をとったようにも思われる。とくに、米山人の山水図には、津藩における居所を彷彿とさせる家屋が描き込まれた作品がいくつかある〔図7〕。また、『神戸小寺家所蔵品入札』(東京美術倶楽部、1930年)に掲載されている米山人筆《芭蕉小禽図》は、所在不明のため実見できていないが、川沿いの2本の芭蕉と椅子を描いた作品〔図8〕のようである。これらの作品は、純然たる胸中山水ではなく、日常の眼前風景を理想化して描いたものではないだろうか。⑵秋山光和ほか編『新潮世界美術辞典』新潮社、1985年、230頁⑶安永拓世「せめぎあい、継承する、日本の文人画─関西を中心に」『日本美術全集第14巻江戸時代Ⅲ若冲・応挙、みやこの奇想』小学館、2013年、203頁⑷上野市古文献刊行会編『宗国史下巻』同朋舎出版部、1981年、395頁⑸浦上家史編纂委員会編『浦上玉堂関係叢書資料編Ⅰ』、浦上家史編纂委員会、2020年、194頁⑹その他、「米山人」の号を出身地の地名と関連付けた論考がある。吉沢忠「岡田米山人筆竹石図・松齢鶴算図・騎牛吹笛図」『日本南画論攷』講談社、1977年、423頁(初出は『國華』935号、1981年)、河野元昭「米山人伝小考」『文人画往還する美』思文閣出版、2018年、450~452頁(初出は『美術史論叢』20号、東京大学文学部美術史研究室)⑺『名古屋叢書第20巻随筆編』名古屋市教育委員会、1961年、377頁⑻水田紀久・野口隆・有坂道子編『木村蒹葭堂全集別巻蒹葭堂日記』藝華書院、2009年、317頁・354頁⑼蕪城秋雪『雲烟逸話扶桑南画正統』酔香堂、1897年⑽神山登「画家の手紙8岡田半江」『日本美術工芸』455号、1976年、60~64頁⑾村上敬「正帆とはなにか」『開館40周年記念岡田米山人と半江展』三重県立美術館、2022年、121~122頁⑿神山登「岡田米山人・半江父子の生涯」『古美術』53号、1977年、57頁―72――72―

元のページ  ../index.html#82

このブックを見る