鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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頁⒀上野市古文献刊行会編『廳事類編下巻』同朋舎出版部、1976年、491頁⒁星野鈴「大坂の南画家岡田半江」『國華』1048号、1982年、11頁⒂『常光寺調査研究報告書』八尾市教育委員会、2018年、77頁⒃森銑三「浦上玉堂伝の研究下」『美術研究』96号、1939年、434頁⒄森銑三「岡野逢原の人名簿」『森銑三著作集続編第3巻』中央公論社、1993年、551頁⒅森下徹「蔵屋敷から見る民衆世界」『シリーズ三都大坂巻』東京大学出版会、2019年、49~58⒆前掲注⒅⒇前掲注⑾『大分県先哲叢書田能村竹田資料集詩文篇』大分県教育委員会、1992年、524頁森銑三「米山人のことども」『森銑三著作集第4巻』中央公論社、1971年、258頁本図面は、『伊賀作事方関連文書』(個人蔵)に含まれる。『伊賀作事方関連文書』とは、津藩における伊賀地域の藩関係施設の建築、維持を担当した作事方の家系に伝わる文書および図面類である。施設図面は、44施設81枚あり、制作時期は文政10年(1827)から明治2年(1869)年に亘り、多くが嘉永2年(1849)とその翌年に制作されている。大坂蔵屋敷については、「大坂天満御家舗絵□」と「大阪天満御家舗絵図」の2枚が残り、「大坂天満御家舗絵□」は保存状態に難があり、年記がない。これを書き写したものと思われる本図面には明治2年(1869)の年記がある。前掲注⑾多治比郁夫・肥田晧三「篠﨑三島葬礼書物」『大阪府立図書館紀要』7号、1971年、45~77頁『廳事類編』によれば、七里鎌倉兵衛の没年は文政2(1819)年である。同年、半江は京都への転勤を命じられ、その2年後にあたる文政5(1822)年に隠退したとされる。星野鈴「大坂の南畫家岡田半江」『國華』1048号、1982年天保4(1833)年9月の斎藤拙堂の往訪については、拙堂詩集「祇役集」(『鐵研斎詩存』汲古書院、2001年所収)に記録が残る。その他、天保8年(1837)1月28日に「伊賀吏人」の訪問を受けていたことが、「広瀬旭荘日記」(『廣瀬旭莊全集』日記篇一、思文閣出版、1982年所収)からわかる。東陽との交友については、二宮俊博「覚書:津阪東陽とその交友(三)同郷の先輩から女弟子まで」『文化情報学部紀要』17号、2018年。高基との交友については、村上敬「米山人の人物画二題」『HILL WIND』50号、2022年を参照陸沈とは「俗人と共に住み、表面は俗人と變らぬ生活をしてゐる隱者」。諸橋轍次『大漢和辞典第11巻』大修館書店、1990年、918頁―73――73―

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