鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
89/604

10)。2.3甬道北壁(五代)2.4主室南壁下部(五代)甬道北壁の第1身は施主である〔図2〕。施主は脚が真横を向いた幞頭をかぶり、手には柄香炉を捧げ持ち、植物文の縁取りがしてある敷物の上に立っている(注11)。題記は次の通りである。[甬道北壁 五代供養者列像 西向き第1身]施主大唐河西歸義軍節度管内左馬……青□禄大夫……騎常侍……史大夫上柱國清□(河)……養この二行にわたる題記は、左起首で書かれていることを現地で確認した。『内容総録』は甬道北壁には五代の供養者像が1体描かれているとするが、題記は2体分残っている(注12)。[同 第2身]男歸義軍……「帰義」の文字が現在も判読可能であることから、帰義軍時代の題記であることが確認できる。主室南壁西方浄土変の下部には、出家と在家の女性供養者列像が描かれている。『内容総録』p. 135には“比丘尼三身”と書かれているが、実際には尼僧像は列像の先頭から4体描かれている。[主室南壁 五代供養者列像 西向き第1身]〔図3、4〕故□(尼)普光□(寺)……問□(樂)……(注13)敦煌の尼寺である普光寺を表すと考えられる題記中の「普光」字は、肉眼では「普光」字であるとの確証には至らなかったが推測は可能と思った。後述するが、敦煌研究院に当該題記の画像を提供して頂き、これを分析したところ「普光」の文字が浮かび上がった。また同壁第3身の題記「普光」字は肉眼でも明瞭であり〔図5、6〕、これらから第1身は普光寺の亡くなった尼僧であると考えられる。さらに、肉眼でははっきりしなかったが、題記末尾は阿闍梨を意味する「闍梨」であることが、敦煌研究院から提供された画像の分析により判明した〔図4〕。「闍梨」の文字は1986年出版の『供養人題記』にも、また1947年出版の史岩による記録にも移録されておらず(注14)、1908年の調査に基づくペリオのcarnetにのみ記録されてい―79――79―

元のページ  ../index.html#89

このブックを見る