鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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「日本歴史」も「国史」と名を変え、国民教育に重要な役割を担うようになっていった(注15)。そのため、研修施設の中に国史絵画館を設置することを前提として、児童への歴史教育を専門とした藤岡が施設調査委員に任命されたのだろう。2,藤岡継平の歴史教科書編纂方針養正館における藤岡の画題選定から開館までの主な役割は次のとおりである。国史絵画制作のため、川崎小虎と渡部審也による参考図作成時の史実面の教授。揮毫者が決定したのち日本画、洋画各揮毫者への画題に関する故実と研究方法の説明。各揮毫者が作成した下絵の批評会への出席である。この後、作品制作にどの程度関わったかは明らかになっていないが、施設委員の中で史実面の直接指導を主に任されていたことがわかる。藤岡は先述したように、教科書の編纂業務に携わる図書局編修課長を務め、第3期国定教科書の歴史科目『尋常小学国史』の編纂者であった。藤岡が編纂した第3期は上巻が大正9年(1920)、下巻が大正10年(1921)に発行され、第4期が昭和9年に発行されるまで使用された(注16)。また、藤岡は少なくとも昭和10年まで編修課長であったことから、第4期の編纂にも関わっていたと考えられる。蒲澤悠貴氏によれば、歴史教科書の先行研究では、この第3期『尋常小学国史』は国定教科書の転機とされており、それまでの歴史教科書から形式面、内容面ともに大きく変化しているという(注17)。蒲澤氏のまとめによる2期から3期への変更で注目する点として、形式面では「挿絵・図表などの大幅増加」「課名をほとんど人物名とした人物中心主義」「天皇を課題名として掲げる数の増加」、内容面では「国家主義的観念を掲げる説話的材料の増加」「訓話的物語教材の採用」「適当で無い人物は課題名に掲げず、課内で逆臣賊子として扱う」「天皇に関する記述の大幅増加」などが挙げられる(注18)。上記の変更点を踏まえつつ、藤岡の第3期の歴史教科書編纂方針について、蒲澤氏は大きく次の4点を挙げている。①児童にとってわかりやすい平易な文章に改めること。②児童の興味を喚起するために訓話的な教材を用いており、神話教材も同じ観点から加えたものであること。③「人物中心主義」をとることにより、政治経済及び文化に関するものなども人物を通じて学ばせることができ、児童の脳裏に残りやすい工夫を凝らしたこと。④最終目的として、「大日本帝国の国民養成」につなげること、である(注19)。また、上記の4点に加え、児童の理解を補助するための挿絵や図表の使用を非常に重要視している。児童の歴史教育に対する挿絵の重要性は明治時代に― 87 ―― 87 ―

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