⑩ 植中直齋の初期の画業について研 究 者:沖縄県立博物館・美術館 非常勤職員 長 嶺 勝 磨はじめに奈良県に生まれた植中直治郎(1885-1977)は、17歳の時に大阪の深田直城に師事して「直齋」と号し、明治38年(1905)に東京の橋本雅邦の門に入った(注1)。直齋は明治36年(1903)第5回内国勧業博覧会に出品した《具足飾》で褒状を受け、さらに明治40年(1907)東京勧業博覧会に《念誦》で2等賞、第1回文部省美術展覧会に《落日》で3等賞を受けており、歴史画を得意とした(注2)。直齋の画業については、彼が《落日》発表後に肺を病み入院して田中智学の援助を受けたこと、智学から日蓮の「御一代記」の研究を勧められて以降、宗教的感動を呼び起こさせる絵画を目指すようになったことが平岡照啓によって論じられ(注3)、直齋が師子王文庫の絵画記者となったことが小松茂美に指摘された(注4)。しかし、直齋が絵画記者になった時期の具体的な活動については、十分に明らかでない。本稿は、明治41年(1908)から明治43年(1910)における直齋の初期の画業に注目し、機関誌『妙宗』や『日蓮主義』に掲載された作品の分析を通じて、彼が智学の布教活動にどのように関わっていたのかを明らかにする。1 田中智学との出会い田中智学は明治41年(1908)12月の『妙宗』第11巻第12号「繪畫布教」において、布教に役立つ芸術として絵画と写真を挙げている。繪で布教する(中略)殊に今日已後のような世の中には、とりわけ此れが必要である。(中略)文章よりも詩歌よりも感會が早くて深くて、而かも普遍的である點に於て特に勝れて居るのである、古來、宗教の宣傳に繪を用ゐたのも偏に是故である。(中略)寫眞は歴史的に、繪畫は美觀に訴へる方が多い、けだし並び用ゐねばなるまい。(注5)彼は直齋に注目した理由を次のように述べている。信仰的畫家を得ないうちは、十分のことは出來ないと考へて、爾來その時期を待て居た、ところが昨年來(中略)青年畫家の秀才植中直齋氏の手腕を認めて、大― 95 ―― 95 ―
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