に感服して居た。どうか斯る天才をして信仰的藝術家たらしめたらばと考へた、(中略)先度の文部省の展覽會に往ッた時、予の尤も敬服した畫が(中略)「阿房宮の火事」と「曉風」と「落日」との三であッた、(中略)「落日」が植中直齋の筆だといふことを聞いて、ますます彼れが畫才に感心したのである、その後不思議な緣で、予とちかづきになるのみならず、遂に正義の信仰を起して、朝夕、聖祖に事へ奉る身となり、あッぱれの大信者となッて、而かも信仰的藝術身を示現するの段とまで進んだ、そこで過般來『妙宗』の繪畫記者として就任するに至ッたのである。(注6)第1回文展の後、栄養不良と極度の疲労により喀血し入院した直齋は、再三病気見舞いの使者を遣わした智学の「展覧会であなたの絵を見た。あなたを援助するのではない。その芸術を保護したいのだ」という言葉に感銘を受け、彼の援助を受けることにした(注7)。退院した直齋は、立正安国会の支部であった神奈川県茅ヶ崎の「我忍會」という会堂で静養し(注8)、同会教職の中村智藏の指導を受けた(注9)。直齋は次のように述べている。私は、生まれ変った気持で養生につとめつつ、日蓮主義の勉強にはげみました。生家は真言宗でしたが、宗教に全く無関心だった私も、身近に中村先生のお教えを頂き、信仰の大切なことがわかりかけてきました。半年ほどの療養生活を終え、大先生の在す鎌倉要山の師子王文庫に上がり、当時発行されていた機関誌『妙宗』の絵画記者という名目で、おせわになることになりました。(中略)またお忙しい中で、時間を特にさいては「芸術のための芸術であってはならない。世間の為になる、人の為になる芸術でなければならぬ」と御教導下さるのでした。(注10)師子王文庫とは智学が「宗學の組織大成(注11)」を目的として明治30年(1897)5月に鎌倉扇ヶ谷に設けた書室である。絵画記者に「植中直齋 號無畏鎧」、写真記者に「中川武二 號蓉嶺」が任命された(注12)。展覧会を通じて、布教に必要な「信仰的畫家」として直齋に注目した智学は、やがて日蓮主義を学んで信仰に目覚めた彼を自身が主宰する機関誌の絵画記者に任命した。― 96 ―― 96 ―
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