2 挿絵及び《聖祖御尊影》の制作絵画記者の主な仕事として、挿絵・《聖祖御尊影》・宗史画の制作が挙げられる。直齋は『妙宗』第11巻第7号に《淨白蓮華》〔図1〕、翌月号に《貧女の一燈》〔図2〕、第12巻第1号に《御題雪中の松》〔図3〕、『日蓮主義』第2号に《妙音》〔図4〕、第5号に《我等幼稚のよろこび》〔図5〕、第9号に《由井ヶ濱の日朗上人》〔図6〕など計6点の挿絵を発表しており、明治41年(1908)7月から挿絵の提供を開始したことがわかる。また『妙宗』第11巻第7号から第11巻第12号にかけて掲載された表紙絵は、直齋が制作した可能性が高い。信仰に目覚め、智学の指導を受けた直齋の制作活動は、絵画による布教としての性格を強め、日蓮及び宗門の事蹟を絵画化することに結びついた。直齋の様子について、智学は次のように述べている。數月前より深厚なる研究を重ねて、聖祖の御尊影を揮毫しつゝある(中略)定本と爲し、その同型式數十百葉を謹寫し奉り、廣く天下同信の士女に頒たうといふので、これ又予の統監の下に研究を積んで、このほど其第一原圖が成功した(中略)幾通りの聖像を描寫したか知れない(注13)直齋は智学の指導の下、多くの日蓮の肖像画を制作していた。また、半年間直齋と起臥を共にした中村智藏は、直齋の様子を次のように述べている。藝術的信念にのみ安ぜし彼は、一たび本化妙宗の靈光に浴し(中略)純信妙行の信者となりぬ、而して本化妙宗の大理想を離れたる藝術は拔慤にして何等の生命なきことを深く覺知するに至りぬ、かくしてかれは、『聖祖御尊影』の謹寫を立願し、主筆先生の御裁可を得て、(中略)専ら御遺文の拜讀と祈念とを主とし、明治四十一年七月八日、我忍會御本尊殿の寳前に於て禮服に威儀を正し至心に聖影拜寫の筆を執れり(中略)その參考として一たび奈良に赴き古美術の研究を爲し、去ッて東都に竹内教授所藏の古來秘傳の諸種の聖影を研究せる外、一室に籠ッて終日畫面に向ふ(中略)昨年末、かれが監裁を主筆先生に請ひまつりし時、『略ぼよし』との許詞を給はれり、而して主筆先生の『繪畫布教』は公にせられたり(中略)頃日、宗門歴史畫研究と共に、更に一幅成れり(中略)素人目にも進境のあと著しき、たゞ驚くばかりに候(注14)― 97 ―― 97 ―
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