明治41年(1908)7月から《聖祖御尊影》の制作を開始した直齋は、竹内久一を訪ねて古画を研究した。智学は「原本として據り候は、波木井所傳、身延奥院畫像京都要法寺の畫像等にて、その他は日法上人の彫刻それ等を基礎と致し候(注15)」と述べている。直齋の《聖祖御尊影》は明治43年(1910)の『日蓮聖人の教義』巻頭〔図7〕に掲載され、「竹内久遠ノ彫刻聖像ト(中略)天下ノ雙美タリ(注16)」と評価された。直齋が昭和41年(1966)に国柱会に献納した《大聖人影》〔図8〕と本作を比べると、図像が酷似しており、定本を踏まえた日蓮像であることがわかる。申込規定によれば、画像は大形1尺8寸が「金弐拾圓」、中形1尺5寸が「金拾圓」、小形1尺が「金五圓」で販売された(注17)。3 宗史画の制作智学は「繪畫布教」において、直齋が宗史の研究を開始したことを次のように述べている。近日予の考案に基ゐて宗史の研究を開始したから、爾來續々この種の新作をものするに至るであらう、さしづめ古今の宗門歴史中著明なる史蹟十二題を撰び、毎月一葉づゝ寫眞で紙上に掲げ、本畫は額にして他日の展觀用に供するつもりである。(注18)『妙宗』第12巻第3号に「歴史畫に就ては、主筆先生御指教の下に記者植中無畏鎧、孜々として研究をかさね、すでに數葉の下圖成り、更に筆を淨めて揮毫にかゝり居り候へば、序を逐ふて毎回掲載せらるべく候(中略)『妙宗』に掲げ濟みの分を美麗なる『繪はがき』に製作し、篤志の人々に分讓いたすべく準備中に候(注19)」とみえる。直齋は次のように述べている。その当時、大先生から「大聖人の御一代記を研究してはどうか」と御指示を得て、自分なりに勉強をはじめました。御聖伝画は、あくまで歴史事実に忠実に、しかも美感を誘発するとともに、法華経色読の聖祖像に無限の宗教的感激をおこさしむべきものでなければならぬ、と教えられました。その表現をめざして一心に『妙宗』雑誌に〝帝都弘教〟ほか数図の宗史画を発表させて頂きました。(注20)― 98 ―― 98 ―
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