鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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聖伝画とは日蓮の事蹟を描いた歴史画を指し、宗史画とは日蓮門下の信徒の事蹟を描いた歴史画を指すと考えられる。明治42年(1909)1月の『妙宗』第12巻第1号の表紙には、直齋の《日持上人海外布教》が掲載された。また同年2月の『妙宗』第12巻第2号巻頭「宗史畫報」には、直齋の《加島法難》〔図9〕が掲載された。中村智藏は、「實相寺主二位律師嚴譽」と「加島鄕瀧泉寺院主代行智房」、「彌藤次入道」らの仕組んだ讒訴により「奉行平左衛門」が加島の「法華信者二十餘名」を鎌倉へ拘禁した事件に取材した本作について、次のように解説している。縛めの繩その儘に庭の大木に縛上げ、發矢!發矢!暫時は所慊はず打ちければ、肉破れて鮮血淋漓(中略)平左衛門心地快に、行智等を顧て打笑つ(中略)十三歳なる一子飯沼判官(中略)矢頃を計て兵と射る、手許や狂ひけん烏帽子掠めて幹深くこそ射たりける(中略)行智彌藤次共に進出で『これ國重、上の仰せに從ひ元の宗旨に歸れ、(中略)念佛申せ、申さぬか、早く申せ』國重、聲を搾て曰く、『某は大日本國の棟梁日蓮大上人の御弟子なり、いざや方々唱へ死に唱へ奉つらん南無妙法蓮華經(中略)鋭と放ちし矢、差たず胸を射拔きぬ、續てまた一矢、血煙りの中より呌び出づる法喜びの聲(中略)かくして神四郎國重は、唱死に死にき(中略)見よ此一幅の繪が吾人に談たる教訓を、吾人の先輩は實に斯くの如くにして法の爲に死せるに非ずや。(注21)本作の画面右端の木に縛られた神四郎国重の胸には二本の矢が刺さり、うち一本は左肩を貫通し、血が滴っている。国重の正面には、弓矢を構える13歳の飯沼判官、その後方には、縁側に腰かける奉行平左衛門が描かれている。庭の中央には剃髪した2人の人物が坐している。手前の人物が行智、奥の人物が厳誉であり、2人の傍らに立つ武士は、国重の兄で法敵となった彌藤次であると考えられる。国重の烏帽子近くの枝には、判官が手元を狂わせて放った矢が刺さっている。本作は国重が行智・彌藤次らの誘惑を拒絶して法華経の題目を唱えた瞬間を描いたものであるといえよう。劇的な構図によって、国重の殉教という宗門の歴史的事件が巧みに絵画化されている。翌月の『妙宗』には、直齋の《永享法難》〔図10〕が掲載された。田中澤二によれば、本作は永享7年(1435)、鎌倉の「權門徒」の讒訴を受けて日蓮の教えを禁じた足利持氏が、一条房日出や大進律師日妙を先頭に新井の閻魔堂に集まった大勢の信徒らを目の当たりにして、ついに禁制を撤回した事件を主題にしたものである(注22)。本作画面右端の柵の前には、「日蓮義」を禁じる制札が立っており、画中には我を斬れ― 99 ―― 99 ―

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