と閻魔堂に集まった大勢の信徒らと困惑する役人らが描かれている。同年6月の『日蓮主義』第2号には、《肥後阿闍梨日像上人禁闕日の御門に帝都弘通を開創す》〔図11〕が掲載された。本作が《帝都弘教》に該当すると考えられる。山川智應は日蓮が臨終に際して経一麿(後の日像)に京都への布教を託したとして「今、宗史畫を掲ぐ(中略)聖祖滅後十三年、乃ち京師に入り、(中略)四月廿八日、未だ曉ならざるに、禁闕の東門に詣り、旭日の登るに向ひ玄題を高唱し、更に闕を拜し(中略)未來王佛冥合の時速ならむを祝禱し(中略)終日歇めず(本繪即ち是)(注23)」と説明している。本作画面右下には、2人の従者を伴う日像が描かれている。日像は画面左上の京都御所の門に向かって合掌しており、京都への布教を開始した瞬間が表現されている。翌月の『日蓮主義』第3号には、《常樂院日經師六條川原耳鼻の慘刑》〔図12〕が掲載された。山川智應によれば、本作は徳川家康の怒りを買い、慶長14年(1609)2月20日に弟子の日秀・日壽・日顕・日玄・日堯らと共に縛られた法華宗妙満寺の貫主日経が京都六條河原において刑吏に耳と鼻を削がれた事件を描いたものである(注24)。本作の画面下部中央に合掌する日経、右側後方に弟子たちが描かれており、刑吏の太刀が日経の鼻を削ごうとしている。同年10月の『日蓮主義』第6号には、《久遠成院日親上人冠鐺の法難》〔図13〕が掲載された。永享12年(1440)、将軍足利義教は日親の強折に憤り焼鍋を被せて迫害したが、日親は題目を唱えて義教の謗法を呵責した(注25)。画面左側の庭には、焼鍋を被せられた日親が描かれている。明治43年(1910)1月の『日蓮主義』第9号には、《日持上人海外布教》が《蓮華阿闍梨日持上人海外布教の首途》〔図14〕という題で掲載された。智学によれば、永仁3年(1295)元旦に北海道函館から「西伯利亞」に向かって単身海外布教に出発した日持は「世界的經營の第一步を啓いた」重要な人物だった(注26)。本作画面左側には、臥牛山の岩肌に題目を記す日持、中央に初日の出、右下に船の準備をする信徒らが描かれている。両手で荷物を運ぶ信徒の服装はアイヌ民族が着用するアットゥシであると考えられる。直齋のほかには、同年4月の『日蓮主義』第12号に峰鸝曉《日頂上人史話『哭銀杏』》〔図15〕、明治44年(1911)7月の第27号に《富木播磨入道常忍悲母の遺骨を奉じて身延に詣づ》という題で掲載された保間素堂《富木常忍省觀之圖》〔図16〕、第28号に広瀬長江《慶林房日隆妙蓮寺の丈室に刺客を信服す》〔図17〕、第33号に保間素堂《阿佛房夫妻改悔受法して雪中に食を奉る》〔図18〕が掲載された。また直齋が宗史画6点を発表した後の新作として(注27)、峰鸝曉《吉隆の妻》〔図19〕、荻生天泉《優― 100 ―― 100 ―
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