鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
114/712

陀那日輝師》〔図20〕、明川南疇《本妙寺日眞上人の陣中布教》〔図21〕が制作された(注28)。これらの宗史画は、明治43年(1910)に落成した三保の最勝閣に展示され(注29)、『日蓮主義』第18号には「四條金吾〇工藤吉隆の妻〇阿佛房夫妻〇賀ママ島法難〇富木入道〇哭銀杏〇日持上人發船〇日像上人帝都開唱〇日隆上人法難〇永享法難〇鍋かぶり日親上人〇常樂院法難〇加藤清正〇優陀那日輝上人」からなる宗史画絵葉書14枚1組を「金廿八錢」で販売する広告が掲載された(注30)。後に一之江申孝園の国柱会本部講堂を飾った宗史画は、富士市鑑石園内にあった素堂の作〔図16〕を除き、すべて昭和20年(1945)の大空襲で焼失した(注31)。おわりに本稿では、絵画記者となった植中直齋の初期の画業を分析し、その内容を明らかにした。入院を契機に田中智学の援助を受けた直齋は、明治41年(1908)7月から『妙宗』や『日蓮主義』に挿絵を提供するようになり、《聖祖御尊影》や宗史画の制作を開始した。彼は多くの《聖祖御尊影》を制作し、6点の宗史画を『妙宗』及び『日蓮主義』に発表した。「宗門歴史中著明なる史蹟十二題」を選び、毎月紙上に掲げるという智学の計画は、『妙宗』と『日蓮主義』において概ね実現した。最終的に14題が描かれた宗史画は、最勝閣に展示され、絵葉書として発行されたことで、信徒らに広まっていった。山川智應によれば、智学が鎌倉で開催した明治42年(1909)4月の大会に展示された直齋の宗史画6点の前を人々が「低徊顧望」し、《聖祖御尊影》大中小3種を竹内久一が「前代未聞の理想的御尊影である(注32)」と称賛した。また智学は「御尊影の外に、時々筆を執り候宗門歴史畫は、何分にも宗門ありて已來始めてのもの多く(中略)文献史實の正據も乏しくて、隨分と畫稿に艱み候、されど出來上りたる畫幅に對して、人々の受け候新たなる感化は、到底吾等の拙き文章や辨舌の及ばざる所に候(注33)」と述べ、直齋を「生しき一青年に候、然れども此大研究を爲して、ほゞ遺憾なきを得たるは、確かに天授の英才にて候(中略)畫としての植中は、確に文學としての樗牛に比すべきものに候(注34)」と高く評価した。直齋は初期の画業において、日蓮や宗門の歴史を多く絵画化することで、智学の「絵画布教」に大きく貢献し、「無限の宗教的感激」を呼び起こす独自の表現を追求していったといえよう。― 101 ―― 101 ―

元のページ  ../index.html#114

このブックを見る