⑪ 霜鳥之彦研究─関西デザイン界における位置付け─研 究 者:京都工芸繊維大学 美術工芸資料館 特任専門職(学芸員)はじめに『日本美術』165号(注1)によれば、大正元年(1912)、神戸において「絵看板展覧会」が開催されたという。この展覧会はこれまでにないものとしてとても人気を博した。同年京都でも同様の展覧会がおこなわれており、この時期に「広告」が注目されはじめたことがわかるだろう。大正2年10月には、東京の農商務省商品陳列館において第1回農商務省主催図案及応用作品展覧会が開催されている。商工省工芸展覧会と名前を変えて昭和14年(1939)までつづくこの展覧会は、図案研究やそれに基づく工芸品の発展を目的として、松岡寿(1862-1944)、平山英三(1855-1914)など東京高等工業学校の関係者や京都高等工芸学校校長の中澤岩太(1858-1943)らの提案に基づいて企画されたものである(注2)。この展覧会では「第二部 美術工芸品ノ図案及其ノ応用作品」の部門のなかに「第七類 彫版、印刷物」が設置されており、いわゆるポスターをはじめとするさまざまな広告物が出品されたことがわかる。こうしたデザイン研究の理論的主導者であったのが、明治14年(1881)開校の東京職工学校を起源にもつ東京工業学校(のちに東京高等工業学校と改称、現・東京工業大学)の工業図案科であった。前述の教員たちに加えて、同校出身の小室信蔵(1870-1922)、安田禄造(1874-1942)らはのちに教員として、デザインの理論化をすすめ、講義録をベースに日本で初めてのデザイン指導書を刊行するなどしている。一方、産業界では、三越呉服店などの百貨店が流通業者として隆盛を誇り、西洋風の生活スタイルやファッションを牽引するとともにポスター広告や雑誌の発行、ショーウィンドウなど店舗の装飾にも力を入れるようになった。明治42年、三越呉服店の広告として発表された《むらさきしらべ》〔図1〕は、洋画家岡田三郎助(1869-1939)が明治40年の東京勧業博覧会で1等を獲得した油彩画を原画とするものである。これに象徴されるとおり、この段階ではまだ日本のポスターは美人画を中心として画家が絵を提供するのが基本であった。その原則を打ち破り、アール・ヌーヴォーなど海外のデザイン様式をうまく取り入れながら、日本独自のグラフィック・デザインを確立したのが、同社で図案家として活躍した杉浦非水(1876-1965)である。一方、関西では、明治35年、不振にあえぐ京都の伝統産業界に理論研究と新しいデ― 107 ―― 107 ―和 田 積 希
元のページ ../index.html#120