ザインを導入すべく、全国で3番目となる官立の工業系高等教育機関として、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)が開校した。図案科が設置された同校では、海外留学の経験をもつ浅井忠(1856-1907)や武田五一(1872-1938)らが教員に就任し、海外から多数のデザイン資料を収集して教材とした。そのなかにはシェレやロートレックなど同時代にヨーロッパを牽引したデザイナーたちの作品が多数含まれている〔図2〕。本研究でとりあげる霜鳥之彦(本名:正三郎、1884-1982)は、その図案科の1期生であり、卒業後、明治39年から10年以上に及ぶアメリカでの研鑽をへて大正9年に同科の教員に就任し、本野精吾(1882-1944)らとともに長く絵画指導・図案指導にあたった人物である。昭和12年には、図案科2年の教科におもにグラフィック・デザインを教える「商業美術」が開講し、霜鳥がこれを担当している。これまで霜鳥については、同期の間部時雄(1885-1968)らとともに浅井忠らに直接指導を受けた洋画家として、そのキャリアが語られることが多かった。実際、アメリカ滞在中には水彩画に取り組み、New York Water Color ClubやAmerican Water Color Societyで入選したほか、大正11年に留学したパリでは、シャルル・ゲラン(1875-1939)などにまなび、官展でも入選を果たしている〔図3〕。帰国後も帝展や京都市美術展へ出品をつづけ、浅井を院長として設立された関西美術院でも、大正10年から運営に関与し、昭和45年には理事長となった。昭和52年には、『丹青緑 霜鳥之彦画業』が出版されており、洋画家としての実績は十分といえる。一方で、大正9年の帰国後は、同年結成された大阪広告協会において広告美術についての講演を引き受けたのをきっかけに、その後同協会で長く指導にあたり、自習園や真美会といった京都高等工芸学校がその設立に関与した工芸団体でも顧問をつとめるなど関西におけるデザイン研究の第一人者として活動をはじめている。大正13年には農商務省の工芸審査委員に着任、1925年にパリで開催された万国装飾美術工芸博覧会に際しては、農商務省の出品鑑査委員をつとめるなど、政府関係の仕事もしている。昭和期には、商工展の審査員をはじめ、さまざまな研究会での顧問をつとめ、昭和6 年からは、大阪毎日新聞社が主催する商業美術振興運動の審査員を引き受けるなど、図案研究者、図案指導者としても多くの実績を残している。しかしながら、こうした霜鳥の図案研究者としての活動はこれまで多くの研究者が折に触れて言及しながらも、本格的な研究はほとんどなされてこなかった。関西におけるデザイン史研究については、宮島久雄や竹内幸絵を中心とする大阪メディア文化史研究会などによって近年精力的に調査が進められているものの、東京に比べて遅れ― 108 ―― 108 ―
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