鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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ているのも事実である(注3)。そこで本研究では、霜鳥之彦の図案研究者としての側面に着目し、彼が当時どのような図案観をもち、実際にどのような審査や指導をおこなっていたのか、その一端を明らかにし、関西デザイン界における位置付けを試みたい。これまでに筆者は、霜鳥が欧米への留学を経て、本格的に日本で活動を開始する1920~30年代について、『帝国工芸』(帝国工芸会)や萬年社主催の研究講座の記録『新聞広告十七講』、昭和7 年に大阪中央放送局(JOBK)が放送した一般商店向け講座「広告戦術」の記録『JOBK 講演集』や、昭和12年発行の『広告街 大阪広告主倶楽部創立十年記念号』などの雑誌から、霜鳥の図案についての言説を洗いだし、霜鳥が審査や指導だけでなく、講演や放送を通じて、一般商店に商業美術や広告美術の概念を普及させる広報官としての役割も担っていたことをあきらかにした(注4)。本研究ではこれらをふまえ、アメリカ滞在中に霜鳥が得た図案に関する知識をさぐるとともに、昭和2年発行の『広告論叢 第七集』(萬年社編・発行)に収載された著述「広告美術の考察」、昭和7年発行の『日本産業美術年鑑』(大阪毎日新聞社、東京日日新聞社編・発行)に収載された「ポスター選評」、昭和14年発行の『日本産業美術作品集第8回』(大阪毎日新聞社編・発行)に収載された「審査寸感」をとりあげて、霜鳥の図案観についてさらなる検証をおこなうこととする。1.アメリカでの図案研究霜鳥之彦は、明治39年(1906)8月に京都高等工芸学校図案科助教授の牧野克次(1864-1942)の誘いで渡米し、大正9年(1920)3月に帰国するまでながくアメリカに滞在した。渡米後、約半年間は、ニューヨーク美術工芸学校の水彩画特別科で牧野の助手をつとめ、無給の見返りとしてデッサンの実習やデザイン科の講義を自由に受けることができたようである。明治42年からはアメリカ自然史博物館で海洋生物の模型製作のためのデッサンや色彩研究に従事している。こうしたアメリカでの生活の様子は本人の回想記などから一部あきらかになっているが、具体的にどこでどのようなことをまなび、実践していたのか不明な点も多い(注5)。霜鳥がアメリカ時代にまなんだことを知るすべとして、『日本デザイン小史』(日本デザイン小史編集同人編、ダヴィッド社、1970年)に収載された霜鳥による「関西における商業美術」に、大正9年秋に14年ぶりに京都へ帰ってまもなく、大阪の商品陳列所によばれ講演を依頼されたという記述がある。その記述によれば「何か研究団体があって、その主催であったのかどうか知らないが、所長は山口貴雄氏であり、専任― 109 ―― 109 ―

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