I The Meaning and Importance of Advertising(広告の意味と重要性)の係りは井岡大輔氏であった。」という(注6)。『丹青緑 霜鳥之彦画業』(霜鳥之彦画業刊行会編・発行、1977年)に、同年11月に大阪広告協会にて「広告美術について」の講演をおこない、アメリカ商業美術を日本へ紹介した旨が記載されているため、おそらくこれが合致すると思われる。霜鳥によれば講演内容は「広告美術と飾窓について」というようなものであった。そこで霜鳥は、渡米当初に籍を置いていたニューヨークの美術工芸学校の校長F・A・パーソンズの著書『広告図案の原則』(1912年)にあるような条項に基づいて説明し、在米中の実例所見を加えたのだという(注7)。なお、この講演が好評であったためか、翌大正10年4月に開催された徳島商業会議所25周年記念式でも、霜鳥は全く同様の内容で講演を依頼されている。じつはこのとき大阪も徳島も飾窓競技会の開催中で、霜鳥は審査にもあたっていた。明治20年代後半、呉服店が陳列販売形式をとり百貨店へと変貌していくなかで、明治末頃から海外の事例などに基づき、広告や経営手法など最新の商業のあり方がしばしば紹介されるようになった。大正期には一般商店などでも店頭装飾の意識が高まり、とくに陳列窓や飾窓とよばれる今でいうところのショーウィンドウの設計について、多くの出版物が刊行された。顧客をひきつける電灯活用法や飾窓の背景図案などの実例集も発行されており、広報手段の一つとして、飾窓が強く意識されていたことがわかる。霜鳥が帰国後はじめておこなった講演は管見のかぎりでは、上記のものであった。このとき、霜鳥が講演の基盤とした『広告図案の原則』は、フランク・アルヴァ・パーソンズ(Frank Alvah Parsons、1868-1930)の著書■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■(Advertising men,s league of New York city, 1912)であったと思われる。1896年に開校したChase Schoolを起源とするニューヨーク美術工芸学校は、1898年にNew York School of Art、1909年にNew York School of Fine And Applied Artと名前を変え、現在は、Parsons School of Designとして存続している(注8)。F・A・パーソンズは1904年に同校に教員として招聘され、ファッションデザイン(当初は衣装デザイン)を、そして1906年にインテリア・デザイン(当初は室内装飾)、1910年からグラフィック・デザイン (当初は広告および商業イラスト)のプログラムを立ち上げ、産業と芸術を結びつけた授業を展開した。同書の序文によれば、これはAdvertising Men,s League of New York City(ニューヨーク市広告主連盟)の設立以前におこなわれた10回の講演記録の要約であるという。そこには、以下の項目があがっている。― 110 ―― 110 ―
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