いること、戦時期に突入していくなかで、日本独自の表現が確立されつつあったことを指摘している。おわりにこのように霜鳥は、自身が主戦場とする洋画の世界を一旦切り離し、京都高等工芸学校やアメリカでまなんだデザイン手法をベースに、商品を宣伝するための手段としての広告とはどうあるべきか、そこに美的な要素を加えていくにはどうすべきなのかを理論化し、それらを関西や地方を中心に審査や各種指導をつうじてわかりやすい言葉で伝えていく役割を担った。日本がデザインという分野で自己を確立していく時期に重要な役割を果たした人物であるといえる。明治42年(1909)に国内初の図案指導書『一般図按法』が出版されるなど、明治末から大正・昭和にかけて東京高等工業学校などを基盤に平山英三、小室信蔵、安田禄造らによる図案研究が進み、ヨーロッパから導入されたデザインを理論化する動きが活発化した。官立学校による東京のこうした図案改良、図案指導のうごきは、基本的に明治維新以降、政府主体で進められてきた『温知図録』の発行や納富介次郎(1844-1918)らによる工芸教育などを継承し、そこにヨーロッパのデザイン研究の成果を翻訳として取り込んだもので、記録の多さもあって積極的に研究が進められてきた。一方、関西では、明治初期から伝統産業の不振からの脱却を目標に、京都が工芸教育や図案改良の主導的な役割を果たしてきたが、大正以降、いわゆる美術工芸から工業生産による経済的工芸が主流となるなかで、その中心地はしだいに大阪へと移り、明治29年に設立された官立の大阪工業学校(明治34年大阪高等工業学校と改称、昭和4年(1929)大阪工業大学に昇格、現・大阪大学工学部)には、図案科が設置されなかったこともあり、今回とりあげた商業美術においては、萬年社や大阪毎日新聞社などむしろ民間企業が主導権を握るようになった。こうした状況のなかで、京都の官立学校の図案科教員である霜鳥之彦が、たびたび大阪主体のデザイン研究会によばれ、その審査指導をおこなっていたことは特筆に値する。霜鳥の図案観は伝統的な文様を重視する京都において、西洋のデザイン手法を早期に取り入れた京都高等工芸学校で培われたものであり、西欧を抜いて世界の工場へとのぼりつめていくアメリカがまさに伸びんとする1910年代のニューヨークで醸成されたものであったと推測できる。この点については、現地調査も含めて今後さらに研究をつづけていきたい。本研究では昭和期の霜鳥の言説3点を検証するにとどまったが、さらなる研究をすすめることで、関西におけるデザイン研究の様相や京都と大阪、あるいは神戸、また― 114 ―― 114 ―
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