1 霊洞院本「三教図」について霊洞院本「三教図」は細やかな画絹を用いた淡い色調であっさりとした細やかな筆致であらわされたさわやかな全容である。中尊には座像の釈迦〔図1〕、右幅に釈迦の方を向く孔子〔図2〕、左幅に釈迦の方を向く老子〔図3〕を立像で描き、掛軸三幅はすべて同寸で本紙は各幅縦93.1横32.2cmである。説法印を結ぶ釈迦には明確な頭光を輪郭際に墨線を引いてその周辺をゆっくりとぼかし、やわらかい光りを濃淡で表現する。釈迦の脇侍の如く描いた左右の孔子、老子には頭光は描かずに両手をあわせ、両脇侍の如く左右対称となるような、自ずと三枚が一つの揃いとなるような図様である。画面の下方部には探幽の落款「探幽斎筆」が墨書で示され、続いて朱文瓢形印「守信」が各幅同様に捺されている。狩野探幽(1602~74)の「探幽斎」を記す斎書き時代、つまりは寛永十二年(1635)に開始され、寛永十五年(1638)十二月に法眼が叔せられており、翌年からは法眼という肩書を用いることになる。よって斎書き時代とは寛永十二年から十五年の頃を指し、それは探幽の制作が京都から江戸に本拠を移すころであり、精力的な活動で知られる彼の生涯のなかでも大きな転換期にあたる時期であるという(注2)。「三教図」は三教一致、三教一理という思想から生み出された図像で、いくつかの例が認められる。日本の「三教図」で顕著なものには霊洞院に近接する建仁寺山内塔頭の両足院が所蔵する伝如拙筆 罕謄叟・正宗龍統賛「三教図」〈重要文化財〉(室町時代15世紀)〔図4〕がまず挙げられよう。もとは別々の紙幅を上中下に貼り合わせ、上中には墨書で二者の賛、下には釈迦・孔子・老子を描いた墨画を配し、釈迦・孔子・老子三者は互いに寄り添うように、一団和気となるように立ち姿であらわされている。両足院本「三教図」もなんらかの図像をもとに描かれたであろうと推測するが、これより遡る年代が確定できる作例は見られない。中国鄭州の嵩山少林寺は北魏の孝文帝が創設した禅宗の発祥地として多くの僧を輩出した古刹であるが、寺内の石碑に線刻で表された二つの「三教図」が伝わっている。この二枚の図様は同様ではなく、一つは「三教聖像」といい、唐代永淳二年(683)「大唐天后御制詩書」石碑の背面に追加された三教の立像は金代の完顔永済大安元年(1209)の後年のものであるらしい(注3)。中央に釈迦、左に孔子、右に老子がそれぞれ立ち姿で、釈迦は説法印を結び、背後に頭光を表すその像様からは霊洞院本「三教図」と類似する点も多く、異なるところは釈迦が立像で孔子老子の立ち位置が逆転するところである。禅の発祥地少林寺の仏教を強調するためであろうか、中央に釈迦、そして釈迦のみが頭光を伴うというところは意図的なものかと感じられる。もう一つは「混元三教九流図」といい、三教― 118 ―― 118 ―
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