の混元、根本は一つであり、それぞれに交じり合い混成し、その分量は等分であるというように読み取れる円い姿を成し、顔面は正面と側面の部分を重ね合わせてあらわす明代嘉靖四十四年(1565)造立の石碑である(注4)。図様からしても三教一致、一理であることを強調するものとして看取できるものである。少林寺の二図の「三教図」の図様の差異からはそこに託された精神性が段階的に変化していることが推察できよう。では霊洞院本「三教図」にはどういった図意があるのであろうか。中尊は釈迦であり、頭光を描かない孔子の儒教・老子の道教とは等分ではないという点がわかりやすいように顕著に現れており、意図的な図意であろうと読み取れるのである。発注主が意図したことなのか、図像之考察を当然掘り下げる必要もあるだろうが、ここで思考するための材料の用意はないが、日本へ鎌倉時代に伝わった禅宗において既に中国での「三教聖像」の図様を知り得ていた可能性があるだろうと考えられよう。さて、朝鮮においての「三教図」は如何なるものであろうか。三教一致の思想は高麗時代後期のころには存在し、朝鮮においても仏教、儒教、道教は三つに数えて挙げて捉え、朝鮮時代初期に活躍した隠士・元天錫(1330~1402)著『耘谷行錄』卷之三「三教一理」(注5)に皆同一性として説明されている。また、朝鮮時代の高僧芙蓉霊観(1485~1571)とその弟子・西山休静(1520~1604)は儒仏道三教において関心があり、休静が著わした仏教書『三家亀鑑』では儒教の教えである『中庸』『論語』、老子の教えである『道徳経』の原文を引用して説明しており(注6)、「三教一理」という思想が朝鮮時代において、高僧の立場から大いに取り入れられていた様子がうかがえる。しかし、図像としての「三教図」は見当たらない。仏教をさかんに取り入れた高麗時代が終焉を迎え、儒教の台頭されるようになる政治的な変化と関係があるのであろうか。2 朝鮮国、醉全堂と岳南さて、霊洞院本「三教図」の画賛について印文を含め紹介する。賛は各幅に濃墨でいずれも力強く堂々と示されており、三幅を二幅と一幅に二人で分けている。並べ見れば、釈迦図と孔子図の二幅は同じ人物の手になるものだと一目で判然とし、この二幅には同印章の関防印(朱文長方印「江湖放幡」)と(朱文方印「醉全居士」)が捺されている。落款墨書も釈迦図に「醉全堂」、孔子図に「醉全」と記す。もう一幅の老子図には関防印はなく、落款部末部に(朱文方印「順陽奉風」(注7))、(白文方印「白也」)、(白文方印「岳南」)の印章が三顆捺される。― 119 ―― 119 ―
元のページ ../index.html#132