3 「御誂之注文」について前章では霊洞院本「三教図」の画賛について、賛文の全容と着賛した人物の特定を落款部分の款記と印章の印文から導き、韓国側の情報と照らし合わせて示した。日本と朝鮮の間での画賛の交流がここに展開したことになるが、本章では賛を得るまでの道筋について史料を交えて考察することとしたい。款記に記された「庚戌」は寛文十年(1670)だと考えられ、この年には朝鮮通信使の来日はなく、朝鮮通信使に関する作例ではないことが明らかである(注10)。そうすると、この霊洞院本「三教図」はどのようにして朝鮮人の筆になる賛を得ることになったのであろうか。この疑問は筆者が長く放置してきた積年の課題であるのだが、朝鮮に賛を注文する様子、「御誂之注文」として「三教図」を記す史料が存在することに気が付かされた。それは対馬の宗家文書の書付(毎日記_寛文9年11月12日条(日記類Aa-1.28)長崎県対馬歴史研究センター蔵〔図5〕)である。これには「三幅一対絵讃ママ(賛)/但釈迦孔子老子」とあり、さらにこれが「御誂之注文」という品目のなかで「絵讃」とあるのである。続いて詩仙三十六枚や巻物八ツも品目として並べられている。寛永十二年(1635)から慶應三年(1867)の間、年間に対朝鮮外交機関として機能した寺院・以酊庵(臨済宗)に数か年ごとに京都より碩学僧が派遣されており、寛文九年五月から同十一年六月において滞在したのは天龍寺寿寧院の泉叔梵亨、発注主は「亨長老」である。ほか、井手弥六左衛門、横目の伊藤又吉などは対馬藩の家臣であり、港町釜山の沿岸部に設置された日本人(対馬人に限る)居留を許された割譲地である倭館に対馬と釜山を度々行き来しながら滞在した対馬の人である(注11)。該当箇所の読みは以下である。 (読み)(表紙)寛文九年(一六六九) 毎日記 酉 霜月中大 樋口吉右衛門一 同(十一月)十二日 晴天西風 杉村伊織 樋口吉右衛門 出仕 (中略) 1669年7月から1672年2月の間に東莱府使を務めた人物で、後には朝鮮国王の側近である王政の中枢を司る承旨、王を諫める役目を負う大司諫、儀礼の制度に関わる礼曹参判を歴任した一級の文臣である。詩文集『岳南集』(注8)がある。『韓国民俗文化大百科事典』(韓国学中央研究院)(注9)より― 121 ―― 121 ―
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