鹿島美術研究 年報第41号別冊(2024)
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(泉叔梵)亨長老より朝鮮滞在の井手弥六左衛門方へ御誂之書物、則弥六左衛門方へ、彼地の横目伊藤又吉にこれを渡し差し越し候、この書物出来候ば、江戸表へ御案内申上候様に、との儀也。   御誂之注文 一 三幅一対絵賛  但 釈迦孔子老子 一 詩仙三十六枚  但 細々書載これ有り 一 巻物 八ツ  以上このように泉叔梵亨より朝鮮釜山の倭館の井手弥六左衛門方へ御誂之書物について、すなわち弥六左衛門方へこの注文について依頼するため、朝鮮横目伊藤又吉にこれを渡し送った。あるいは伊藤又吉が横目を任命され、渡海するので、釜山の滞在する井手弥左衛門に渡したという流れもあるであろうか。この書物、要するに誂物の注文が仕上がったならば、江戸藩邸へ報告するように、ということであろう。この画賛の件の前後では寛文八年~十年に国元・江戸藩邸ともに「毎日記」に掛物の記事がいくつか確認でき、その内容は狩野探幽、養朴へ絵の制作を依頼するなど、日本からの依頼によって釜山倭館において朝鮮ものとして日本向けに制作した朝鮮焼(高麗茶碗)の積極的な入手など、対馬藩主体の対朝鮮外交が絵画、茶碗の方面で盛んに行われる時期に符合する。日本と朝鮮との両国間の関係性が江戸、京都、対馬、釜山という拠点において人と物が移動している様子が確かにある。さて、本来の霊洞院本「三教図」の考察において多少、本流から逸れる話題となるが、「御誂之注文」品目の詩仙三十六枚についての考察も加えたい。これは徳川美術館所蔵の板絵の存在から狩野探幽及びその周辺の筆になるものであろうことが予測できる上、朝鮮との交流がある隠士石川丈山(1583~1672)の存在が自ずと浮かび上がる。京都洛北の一乗寺村に寛永十八年(1641)に丈山は中国の詩人を本朝に存在する歌仙三十六人に倣い、詩仙として選び、羅山とも選考に関し意見を交えている。狩野探幽の筆になる詩仙三十六人の像を自愛の詩仙堂の中心の建物凹凸窠の四方の小壁に掲げ、この風流な空間で漢詩文を読み耽り、書芸に精を出した。この丈山の発意によって造営された、一乗寺の詩仙堂と詩仙三十六撰に先んじて、丈山は漢詩文の能力に長けた朝鮮人に出会っている。寛永十三年(1636)来日の朝鮮通信使である。正使任絖、副使金世濂、読祝官に吏文学官権侙をはじめ、医師、画員、馬芸武官など総勢五百名近くの大使節団が朝鮮王の命を帯びて江戸まで東上した。釜山、対馬から大坂まで瀬― 122 ―― 122 ―

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